琥珀色の残照、鉄紺の風(架空のショートストーリー)
第一章:無機質な光の点滅
令和八年二月十一日。建国記念の日。 都心の一角、再開発が進む高層ビルの足元で、二十四歳のシモは、凍てつく空気の中に立っていた。
彼の右手には、規則的に赤く点滅する誘導灯。左手には、通行人を促すための白い手袋。 「恐れ入ります、足元お気をつけください」 その言葉は、もはや意味を伴わない音の塊として、彼の唇からこぼれ落ちては消えていく。
シモはこの仕事に、飽き飽きとしていた。 大学を卒業してから二年間、やりたいことも見つからず、ただ食いつなぐために始めた警備員の仕事。毎日同じ場所で、同じ制服を着て、同じ動きを繰り返す。行き交う人々は、彼を人間としてではなく、ただそこにある「動くパイロン」のようにしか見ていない。
「……何やってんだろ、俺」
厚手のヒートテックを二枚重ね、防寒着を羽織っていても、芯から冷える寒さだ。しかし、目の前のコンビニには温かい飲料が並び、足元のアスファルトは完璧に舗装され、空にはドローンが物流の荷を運んでいる。平和で、清潔で、退屈な世界。 シモは、自分の人生がこのまま、点滅する誘導灯のように空虚に繰り返されるだけではないかという恐怖に、時折襲われる。
その時だった。 工事現場の奥、古い石碑を撤去しようとしていた重機が、鈍い音を立てて止まった。 「おい、なんだこれ」 作業員の誰かが声を上げる。 シモは何気なく、その石碑の方へ目を向けた。その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
コンクリートの匂いが消え、代わりに焦げ臭い、湿った土の匂いが鼻腔を突いた。 耳元で鳴り響いていた重機のエンジン音が、遠い雷鳴のような轟音に変わる。 シモは眩暈に耐えきれず、その場に膝をついた。
第二章:瓦礫と氷の街
「おい、あんちゃん。そんなところで寝てたら死んじまうぞ」
不意に肩を揺さぶられ、シモは目を開けた。 そこには、煤(すす)で汚れた顔をした、十歳くらいの少年が立っていた。 シモは言葉を失った。
目の前に広がっていたのは、見慣れた新宿のビル群ではない。 見渡す限りの焼野原。辛うじて立っているのは、火災で黒ずんだレンガ造りの建物の一部と、無数に突き立てられた電信柱の残骸だけだった。 空は低く、鉄紺色(てつこんいろ)の雲が重く垂れ込めている。
「ここ……どこだよ」 「何言ってんだ。新宿だろ。紀元節だってのに、雪が降りそうじゃねえか」
紀元節。現代でいう建国記念の日だ。 シモは自分の手を見た。警備員の制服はそのままだったが、その鮮やかなネオンイエローのベストが、この灰色の世界ではあまりに異様に、浮き上がって見えた。
「お前、変な服だな。どっかの進駐軍(しんちゅうぐん)の使いか?」 少年は、シモが手に持っている誘導灯を不思議そうに見つめた。 電池が切れたのか、それはもう光っていなかった。
シモは震えながら、ポケットに手を突っ込んだ。スマートフォンの画面は真っ暗で、電波など届くはずもない。 昭和二十一年、二月十一日。 終戦からわずか半年後の、凍りつくような冬。 そこは、彼が「退屈だ」と吐き捨てた現代から、ちょうど八十年前の世界だった。
第三章:一欠片の「豊かさ」
少年――健太(けんた)に連れられ、シモは焼け跡を歩いた。 道路は穴だらけで、泥濘(ぬかるみ)が足首まで浸かる。シモの履いている最新の安全靴は、泥を跳ね飛ばすが、健太の足元はボロボロの地下足袋だった。
「寒いな」 シモが呟くと、健太は鼻をすすりながら笑った。 「寒いのなんて当たり前だろ。腹が減ってるから余計にな。なあ、あんちゃん。何か食い物持ってねえか? 進駐軍のチョコとかさ」
シモは、ベストの胸ポケットに入っていた「非常食」のことを思い出した。 仕事の合間に食べようと思っていた、一本のプロテインバー。 それを取り出し、包装を剥いて半分に折ると、健太に差し出した。
健太はそれを、宝物でも見るような目で見つめた。 「なんだこれ。お菓子か?」 恐る恐る口に運び、一口噛んだ瞬間、少年の目が大きく見開かれた。 「……甘い。これ、すげえ甘いよ!」
健太は泣きそうな顔で、残りの半分を大事そうに懐に仕舞った。 「お母ちゃんに食べさせてやるんだ。病気で寝てるから」
シモは胸を締め付けられるような思いがした。 現代の自分なら、こんなプロテインバー一本、大して美味いとも思わずに噛み砕き、ゴミ箱に捨てていただろう。 ここでは、一欠片の甘みが、命の灯火を繋ぐほどの価値を持っている。
しばらく歩くと、そこがかつてシモが立っていた「工事現場」の場所であることに気づいた。 そこには今、配給を待つ人々の長い列ができていた。 皆、ボロボロの国民服やもんぺを纏い、肩を寄せ合って寒さに耐えている。その顔には、絶望と、それでも生きようとする執念が混ざり合っていた。
ふと、列の中にいた一人の老人が、シモの派手な制服を見て、静かに微笑んだ。 「派手な色だね、お兄さん。まるでお天道(てんとう)様みたいだ。いつか、この街もそんな明るい色でいっぱいになる日が来るのかねえ」
その言葉に、シモは答えられなかった。 「……なりますよ。八十年後には、夜でも太陽みたいに明るい街になります」 「ははは、そりゃあ夢みたいな話だ」
老人は咳き込みながら、空を見上げた。 その空の先にある未来が、今のシモが生きる、あの「退屈な現代」なのだ。 飢えがなく、戦火の怯えもなく、夜になれば温かい布団で眠れる世界。 誰かが血を吐く思いで瓦礫を片付け、アスファルトを敷き、この国を建て直してきた。 シモが今、警備員として「守っている」その道路は、彼らの祈りの結晶だったのだ。
第四章:警備員の矜持
突然、強い突風が吹き抜けた。 砂埃が舞い上がり、シモは目を細めた。 「健太! おじいさん!」 叫んだが、返事はない。 景色が再び、万華鏡のように歪み始める。
灰色の世界が遠ざかり、鮮やかな色彩が戻ってくる。 車のタイヤがアスファルトを叩く音。 コンビニから流れる電子音。 遠くで鳴る、救急車のサイレン。
「……シモ! おい、シモ! 何ボーッとしてんだ!」 監督の怒鳴り声で、シモは我に返った。 気づけば、彼は元の工事現場の前に立っていた。手には、再び赤く点滅し始めた誘導灯。
「すいません! すぐ戻ります!」 シモは短く答え、姿勢を正した。
周囲を見渡した。 さっきまで「無機質だ」と感じていた街の明かりが、今はひどく愛おしく感じられた。 道を行き交う人々は、スマホを見たり、笑い合ったりしながら、安全に整備された道を歩いている。 彼らは気づいていない。この平穏な地面の下に、かつてどれほどの苦しみと、復興への願いが埋まっているかを。
シモは、右手の誘導灯を力強く振った。 「恐れ入ります、足元お気をつけください。こちら側をお通りください」
先ほどまでとは、声の張りが違った。 彼の仕事は、単に「立っている」ことではない。 先人たちが築き上げ、今日まで繋いできたこの平和な日常を、一歩ずつ守ることなのだ。
一人の幼い女の子が、母親の手を引いて通りかかった。 「おじさん、光ってるね! きれい!」 女の子がシモのベストを指差して笑う。 シモは少しだけ照れくさそうに、しかし誇りを持って、その子に会釈した。 「ありがとう。気をつけて行ってね」
第五章:令和八年の建国記念日
空はいつの間にか、澄み渡った冬の青に変わっていた。 八十年前のあの日、健太が見上げた鉄紺色の空の先に、今のこの青空がある。
シモは休憩中、コンビニで一本の栄養バーを買った。 パッケージを開け、一口噛みしめる。 濃厚なチョコレートの甘みが、口いっぱいに広がった。 それは、健太が泣きそうになりながら味わった、あの甘みと同じはずだ。
「……美味いな」 自然と涙がこぼれそうになり、シモは空を仰いだ。
現代社会は、決して完璧ではないかもしれない。 閉塞感があり、格差があり、将来への不安も尽きない。 けれど、八十年前の彼らが喉から手が出るほど欲しがった「日常」を、自分たちは今、贅沢にも持て余している。
「よし」 シモは食べ終えたゴミを丁寧にまとめ、ゴミ箱に捨てた。 そして、再び冷たい風の中に足を踏み出した。
彼の振る誘導灯は、今やただの光の点滅ではない。 過去から未来へと続く道を照らす、一つの灯台(ビーコン)のように、力強く闇を切り裂いていた。
「足元、お気をつけください! 今日も一日、お疲れ様です!」
シモの声は、建国記念日の晴れ渡った空へ、真っ直ぐに響き渡った。 退屈だと思っていた仕事は、今、彼にとって代えがたい「使命」に変わっていた。
(完)
