東風(こち)吹かば、青春の決算〜令和8年2月25日の奇跡〜(架空のショートストーリー)
第一章:令和8年2月25日、試練の朝
止まった電車と焦燥
令和8年(2026年)2月25日、午前7時15分。 吐く息は白く、東京の街はまだ冬の冷たい空気に包まれていた。国立大学の二次試験・前期日程の朝。この日は、全国の受験生にとって「青春の決算」とも呼べる特別な日だ。
高校三年生のSENAは、満員電車の中で冷や汗を流していた。 背中のリュックには、これまで三年間、ボロボロになるまで使い込んだ参考書と単語帳、そして何十本と消費してきたボールペンの芯の代わりに、研ぎ澄まされた鉛筆が数本、お守りと共に収まっている。 模試の判定は常にギリギリだった。E判定から始まり、最後の冬にようやくC判定に滑り込んだ。睡眠時間を削り、友人たちの遊びの誘いを断り、ただひたすらに机に向かってきた。この日のために、文字通り青春のすべてを学問に捧げてきたのだ。
しかし今、SENAの乗る地下鉄は、駅と駅の間の暗いトンネルで完全に沈黙していた。 『先行列車での急病人救護、およびそれに伴う車両点検のため、運転を見合わせております。復旧のめどは……』 無機質な車内アナウンスが響くたび、SENAの心臓は早鐘を打った。スマートフォンで乗り換え案内アプリを開くが、現在地から試験会場までのルートはすべて「遅延」か「運転見合わせ」の赤い文字で埋め尽くされている。
「嘘でしょ……なんで今日に限って」
SENAの唇から、震える声が漏れた。試験開始は午前9時半。しかし、指定された集合時間は8時半だ。このまま車内に閉じ込められれば、確実に間に合わない。遅刻者への救済措置があるとはいえ、極限の精神状態で挑む受験において、このトラブルは致命的な動揺を誘う。 「僕の三年間は、こんな運の悪さで終わってしまうの?」 暗闇の窓ガラスに映る自分の顔は、青ざめ、今にも泣き出しそうだった。
15分後、電車は徐行しながら最寄りではない見知らぬ駅に滑り込んだ。SENAは迷うことなく電車を飛び出した。タクシーを拾おうにも、駅前のロータリーにはすでに長蛇の列ができている。 「歩くしかない」 地図アプリによれば、ここから試験会場の大学までは徒歩で約40分。走れば十分に間に合う距離だ。SENAはリュックの紐を固く握り直し、見知らぬ街の冷たいアスファルトを蹴った。
迷い込んだ天満宮
しかし、焦りは思考を鈍らせる。 近道をしようと入り込んだ住宅街は、まるで迷路のように複雑に入り組んでいた。高い塀と似たような家並みが続き、方向感覚が狂っていく。さらに不運なことに、頼みの綱であったスマートフォンの地図アプリが、位置情報を見失い、画面の中で現在地のアイコンが虚しく回転し始めた。
「道が……わからない」
時計の針は8時10分を指していた。足は鉛のように重く、息は上がり、冷たい風が汗ばんだ首筋から体温を奪っていく。 絶望感がSENAの胸を締め付けた。これまで積み上げてきた努力の結晶が、指の間からサラサラと砂のようにこぼれ落ちていく感覚。第一志望の門をくぐる自分の姿が、遠く霞んでいく。
その時だった。 ふわりと、冷たい風に混じって、甘く清らかな香りがSENAの鼻腔をくすぐった。
「……花?」
見上げると、コンクリートの建物の隙間に、こんもりとした緑の木立ちが見えた。香りに誘われるようにふらふらと歩みを進めると、そこには古びた石鳥居がひっそりと佇んでいた。鳥居の脇には『志茂天満宮』と彫られた石柱がある。地図には載っていないような、地域の人々にだけ守られてきた小さな神社だった。
境内には、見事な白梅と紅梅が咲き誇っていた。まるでそこだけが別の次元であるかのように、静寂と温かな空気に満ちている。 SENAは、吸い込まれるように鳥居をくぐった。試験に向かわなければならないという理性と、極度の緊張から一時的に逃れたいという本能が葛藤していたが、限界を迎えていた足は自然と拝殿へと向かっていた。
「神様……どうか、私を試験会場まで連れて行ってください。どうか……」
賽銭箱の前に立ち、SENAは目を閉じて両手を合わせた。それは祈りというより、すがるような哀願だった。
第二章:梅の香りと風変わりな老人SHIMO
神様は祈りだけでは動かない
「ほう。ずいぶんと切羽詰まった顔をしておるな、若人よ」
唐突に背後から声をかけられ、SENAはビクッと肩を震わせて振り返った。 そこには、一人の老人が立っていた。年齢は70代後半から80代に見える。仕立ての良い現代のトレンチコートを着ているが、その下にはなぜか鶯色の古風な袴のようなものを穿いており、手には竹箒を持っている。白髪は綺麗に撫でつけられ、深い皺の刻まれた顔の奥には、すべてを見透かすような鋭くも優しい双眸が輝いていた。
「あ、あの……すみません。道に迷ってしまって」 SENAがしどろもどろに答えると、老人はふぉっふぉっと静かに笑った。
「受験生であろう? その鞄からはみ出しておる受験票と、お主が纏う悲壮なまでの決意のオーラが見えれば、誰でもわかる。私の名はSHIMO。この梅の木々の世話をしておる、ただの年寄りだ」 SHIMOと名乗った老人は、竹箒を石畳に立てかけ、SENAの横に並んだ。
「神様に、試験会場へ飛ばしてくれとでも祈っておったのかな?」 図星を突かれ、SENAは恥ずかしさで俯いた。 「……はい。電車が止まってしまって、道にも迷って。もう、自分の力じゃどうにもならない気がして……。学問の神様なら、奇跡を起こしてくれるんじゃないかって、バカなことを考えました」
SENAの言葉を聞き、SHIMOは梅の花を一輪見つめながら、ゆっくりと首を横に振った。
「神は、祈りだけでは動かんよ。とりわけ『学問の神様』とやらは、人間の身勝手な『合格祈願』などには辟易しておるはずだ。何も努力せぬ者に、なぜ手を貸さねばならんのか、とな」 「僕は、努力しました!」 SENAは思わず大声を上げていた。 「この三年間、遊ぶことも寝ることも我慢して、ずっと勉強してきました。青春の全部を注ぎ込んだんです。それなのに、こんな理不尽なトラブルで終わるなんて、納得できません!」
怒りとも悲しみともつかない感情が爆発し、SENAの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。SHIMOは驚く様子もなく、ただ静かにSENAの涙を受け止めていた。
「そうか。お主はそれほどまでに、学問と向き合ってきたのだな。ならば、なおさら神頼みなど必要あるまい」
道真が愛した「学問の真髄」
SHIMOは懐から清潔な手ぬぐいを取り出し、SENAに差し出した。 「今日が何月何日か、知っておるか?」 「え……2月、25日です」 涙を拭いながらSENAが答えると、SHIMOは深く頷いた。
「左様。2月25日。世間では国公立大学の受験日として知られておるが、歴史上、今日はある人物の命日でもある。学問の神様として祀られている、菅原道真公が太宰府の地で非業の死を遂げた日だ。奇しくも、お主たち現代の若者が人生を賭けた戦いに挑む日と、同じ日なのだよ」
SHIMOの言葉には、不思議な重みと響きがあった。ただの歴史好きの老人とは思えない、まるでその時代を共に生きたかのような生々しさが感じられた。
「道真公はな、幼い頃から神童と呼ばれ、ひたすらに学問に打ち込んだ。その才覚で右大臣という国の頂点近くまで上り詰めた。しかし、その才能を妬む者たちの陰謀により、いわれのない罪を着せられ、京の都から遠く離れた太宰府へと左遷されたのだ。家族とも引き離され、衣食にも事欠くような惨めな生活を強いられた」
SHIMOは空を見上げた。その瞳には、遠い千年前の景色が映っているかのようだった。
「お主ならどうする? すべてを奪われ、絶望の淵に立たされた時、これまで自分が信じてきたものを呪わないか? 学問など何の意味もなかったと、世を恨まないか?」
SENAは言葉に詰まった。もし自分が道真だったら、きっと勉強してきたことすら後悔し、不遇を嘆くだけの毎日を送るだろう。今の自分だって、電車が止まっただけでこれほどまでに絶望しているのだから。
「しかし、道真公は違った」 SHIMOは力強く言った。 「彼は太宰府の地にあっても、決して本を手放さず、詩を詠み続けた。学問を恨むどころか、学問こそが彼の唯一の救いであり、魂の拠り所だったのだ。彼は知っていたのだよ。学問とは、出世のための道具でも、試験に受かるための手段でもない。自分という人間を深く知り、世界を理解し、いかなる理不尽な絶望の中にあっても、心の光を失わないための『真の力』なのだと」
SHIMOの言葉が、冷え切っていたSENAの胸の奥に、じんわりと温かい火を灯していくのを感じた。
「お主がこの三年間で得たものは、試験の点数だけではないはずだ。眠い目を擦りながら机に向かった忍耐、解けなかった問題が解けた時の喜び、自分の限界を超えようとした意志。それらはすでに、お主の血肉となっておる。結果がどうであれ、お主の『青春の決算』が理不尽なトラブルで無価値になることなど、絶対にあり得ないのだ」
第三章:時を超えたエール
幻想の終わり、現実への帰還
「僕の……血肉……」 SENAは自分の両手を見つめた。ペンダコが硬く盛り上がり、黒鉛で少し汚れた指先。それは紛れもなく、自分が三年間闘い抜いてきた証だった。試験に間に合わなかったらどうしようという焦燥感が、少しずつ澄んだ静かな闘志へと変わっていく。
「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」
SHIMOが、ふと有名な和歌を口ずさんだ。道真が京を去る際に、庭の梅に向けて詠んだ歌だ。 「梅の花はな、厳しい冬の寒さを耐え忍ぶからこそ、春に美しい花を咲かせ、芳醇な香りを放つのだ。神に祈ったから咲くのではない。己の中に蓄えた力で咲くのだよ」
SHIMOはSENAの肩にポンと軽く手を置いた。その手は、驚くほど温かかった。 「お主はもう、十分すぎるほどの蕾を蓄えておる。あとは、お主自身の春を信じるだけだ。さあ、顔を上げなさい。道は、すでに開かれておるぞ」
その瞬間、境内を強い風が吹き抜けた。東から吹く風——東風だ。 ザワザワと梅の木が揺れ、無数の花びらが粉雪のように舞い散る。SENAは思わず目を閉じた。梅の甘い香りが全身を包み込み、不思議な力が体の底から湧き上がってくるのを感じた。
「ありがとうございます、SHIMOさん。僕——」
風が止み、SENAが目を開けると、そこに老人の姿はなかった。 「え……?」 周囲を見渡しても、竹箒を持ったトレンチコートの老人はどこにもいない。ただ、古びた拝殿と、美しく咲き誇る梅の木があるだけだった。幻でも見ていたのだろうか。
『プァーン!』 突然、遠くから列車の警笛が聞こえた。 ハッとしてスマートフォンを見ると、止まっていたはずの地図アプリが正常に作動し始めていた。現在地から大学までのルートが、青々とした線で明確に示されている。画面の上部には「地下鉄〇〇線、運転再開」の通知が光っていた。
時計を見る。8時25分。 あれだけ長く話していたように感じたのに、時間がほとんど進んでいない。SENAは深く一礼して天満宮を後にし、駅へと駆け出した。足は羽が生えたように軽く、心には一片の迷いもなかった。
伏線の回収:東風が運んだもの
なんとか試験開始の15分前に会場の教室に滑り込んだSENAは、荒い息を整えながら指定された席に着いた。周りの受験生たちの緊張した空気が肌を刺すが、SENAの心は凪のように静かだった。リュックから筆記用具を取り出し、机の上に並べる。
午前9時30分。第一科目の国語の試験開始のチャイムが鳴り響いた。 SENAは深呼吸をし、問題用紙を開いた。現代文を解き終え、古文のページを開いた瞬間、SENAの動きがピタリと止まった。
そこに印刷されていた問題文は、『大鏡』の菅原道真の左遷に関する記述であった。 そして、傍線部Aとして引かれていたのは、道真が太宰府で詠んだ漢詩の一節と、あの和歌だった。
『東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花……』
さらに、設問の最後にはこう記されていた。 問五:筆者は、不遇な環境下でも学問を諦めなかった道真の姿勢をどのように評価しているか。本文の趣旨を踏まえ、自分の言葉で説明せよ。
SENAの脳裏に、あの梅の香りと、SHIMOの優しい声が鮮明に蘇った。 『学問とは、出世のための道具でも、試験に受かるための手段でもない。いかなる理不尽な絶望の中にあっても、心の光を失わないための真の力なのだ』
あの不思議な老人は、単なる偶然の出会いだったのだろうか。それとも、今日という日に、絶望しかけた現代の受験生を励ますために、時を超えて現れた「彼」その人だったのだろうか。
「学問の神様は、祈りを叶えるんじゃない。学問の真の価値を教えてくれる存在なんだ」
第四章:青春の決算、そして未来へ
解き放たれた鉛筆
SENAの目から、再び涙が溢れそうになった。しかしそれは、朝の焦燥と絶望の涙とは全く違う、温かく、感謝に満ちた涙だった。SENAは袖でグッと涙を拭い、鉛筆を握り直した。
迷いはなかった。SHIMOが教えてくれたこと、そして自分がこの三年間で培ってきた「血肉」が、ペン先を通じて解答用紙に滑り出していく。 「学問とは、自らの内なる光を育て、いかなる困難にあっても尊厳を失わないための力である。道真が梅に託した想いは……」
カリカリ、カリカリと、教室中に鉛筆の音が響き渡る。 それは、SENAにとって「青春の決算」の音だった。結果に対する恐怖はもうない。ただ、自分の持てるすべての力を、この紙の上に置いてくるだけだ。
窓の外を見ると、朝の冷たい曇り空はいつの間にか晴れ渡り、冬の終わりを告げるような柔らかい日差しが差し込んでいた。ガラス窓をかすかに揺らす風は、きっと東から吹いている。
SENAはふと、ポケットの中に入れたままにしていたお守りに触れた。 その横に、なぜか朝には入っていなかったはずの、小さな硬い感触があった。そっと指先で取り出してみると、それは一枚の乾燥した美しい白梅の花びらだった。
「……春を、忘れないよ」
心の中で小さく呟き、SENAは最後の問題に力強く句点を打った。 令和8年2月25日。この日、SENAはひとつの試験に挑み、そして、人生を生き抜くための本当の強さを手に入れた。東風が運んだ奇跡は、SENAの胸の中で、これからもずっと芳醇な香りを放ち続けるだろう。
(了)
