大谷パパの隠密産休と、絶対に雨を降らせたい男たち(架空で空想のショートストーリー)※画像はすべてAIによるイメージです
第一章:ノイズまみれの朝と、消えた背番号17
2026年(令和8年)6月20日、土曜日の朝。世界はいつも通り、無数の情報とノイズにまみれて目を覚ました。
フリーランスのルポライターであるshimoは、書斎の窓から差し込む初夏の鋭い陽射しを避けるようにブラインドを下ろし、三杯目のブラックコーヒーを喉に流し込んでいた。彼が長年身を置いてきたメディア業界は、ここ数年で劇的な変容を遂げていた。AIが数秒で生成するニュース記事がネット空間を埋め尽くし、事実確認(ファクトチェック)の追いつかない憶測が真実のような顔をして闊歩する時代。だからこそ、shimoは自らの足で歩き、自らの目で見たものだけを、時流に流されない重厚なテキストとして紡ぎ出すことに固執していた。
しかし、この日の朝だけは、彼もまた世界を駆け巡る「情報という名の狂騒」に巻き込まれざるを得なかった。
『速報:ロサンゼルス・ドジャース、大谷翔平が本日のスタメンから急遽外れる。ベンチ入りもなし。球団からの正式発表は未だなし』

午前7時過ぎ、スマートフォンを震わせたその短いテキストは、瞬く間に世界中のソーシャルメディアを大パニックに陥れた。2026年シーズン、前人未到の記録更新へ向けて爆走中だった背番号17の突然の「消失」である。
ネット上の反応は、まるで巨大な蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
「ついに怪我か!? 右肘に違和感が再発したのか?」
「いや、これは電撃トレードの予兆だ。水面下で信じられないメガ・ディールが動いているに違いない」
「AIの予測モデルによれば、宇宙人に誘拐された確率が0.001%あるらしいぞ」
ドジャースタジアムの現地メディア席も混乱の極みにあった。shimoのノートパソコンの画面には、現地の中継映像が映し出されている。普段は冷静沈着なベテランスポーツキャスターたちが、マイクを握りしめたまま言葉に詰まり、右往左往する球団広報の姿がチラチラと見切れていた。大谷翔平という存在は、もはや単なる一人の野球選手ではない。彼の一挙手一投足は、日米の経済効果を左右し、何百万という人々のその日の気分を決定づける、一種の巨大なインフラストラクチャーとなっていた。そのインフラが、何の前触れもなく停止したのだ。
「まったく、現代人は少し落ち着くということを忘れてしまったらしい」
shimoはため息をつきながら、ブラウザのタブを切り替えた。彼には、この騒動の裏に何か別の、もっと人間的で温かい理由があるような気がしてならなかった。彼は長年の勘を信じ、ロサンゼルスを拠点に世界中を飛び回っている気鋭の若手映像ジャーナリスト、SENAに暗号化されたメッセンジャーアプリで連絡を入れた。
『LAは大変なことになっているな。真実の断片は掴めているか?』
数分後、SENAから短い返信があった。
『shimoさん、お疲れ様です。こっちのメディアは完全にパニック映画のワンシーンですよ。でも、僕の独自ルートで最高にハッピーで、最高に人間臭い裏情報が入りました。いま、通話できますか?』
SENAからのビデオ通話の着信音が、静かな書斎に鳴り響いた。画面に映し出されたSENAは、金髪に染め上げた前髪を無造作に掻き上げながら、どこかいたずらっ子のような笑みを浮かべていた。その後ろには、カリフォルニアの抜けるような青空と、パームツリーが揺れる風景が広がっている。

「単刀直入に言いますよ、shimoさん。大谷選手は怪我でもトレードでもありません。宇宙人にも攫われていません」
「では、何故スタメンから消えたんだ? 球団が沈黙しているのが不自然すぎるだろう」
「沈黙しているんじゃありません。球団側も、発表のタイミングを計っていただけです。実は昨夜遅く……」
SENAは声を潜め、しかし隠しきれない興奮を交えて言った。
「大谷選手に、第二子が誕生したんです。彼はメジャーリーグの労使協定で定められた『パタニティ・リーブ(父親の産休)』を取得しました。今頃彼は、バットの代わりにオムツを握りしめているはずですよ」
shimoは一瞬呆然とし、そして腹の底から湧き上がるような笑い声を上げた。 「パタニティ・リーブか! なんてこった、世界中が悲観的な憶測で暴走している時に、当の本人は新しい命の誕生に立ち会っていたというわけか」
「ええ、最高にクールでしょう?」SENAも笑った。
「アメリカ社会では、どれだけ重要なポストにいる人物でも、いや、トップ・オブ・トップだからこそ、家族のための時間を最優先にすることが社会的なステータスであり、強いメッセージになります。彼が堂々と産休を取ることは、どんなホームランよりも価値のある社会貢献かもしれません。……ただ、現地からの情報だと、別の意味で大苦戦しているみたいですが」
「大苦戦? どういうことだ」
SENAの解説によると、事の顛末はこうだ。 ビバリーヒルズの閑静な住宅街にある大谷邸では現在、かつてない「死闘」が繰り広げられているという。無事に退院してきた妻と、生まれたばかりの赤ん坊を前に、超人的な身体能力を持つアスリートが、たかだか数十グラムの紙オムツに悪戦苦闘しているのだ。
160キロの豪速球を捉える動体視力も、特大のアーチを架ける筋力も、新生児の柔らかすぎる脚をそっと持ち上げ、テープを適切な位置で止めるという繊細なミッションの前では無力に等しかった。さらに悪いことに、愛犬のデコピンが新しい家族の登場に興奮しきっており、大谷が広げた新しいオムツを咥えてはリビングを逃げ回っているらしい。

「想像してみて下さいよ、shimoさん」SENAは腹を抱えて笑った。
「世界最強の野球選手が、『こら、デコ! それは返して!』って犬を追いかけ回しながら、もう片方の手で赤ん坊をあやしている姿を。しかも、その事実を知らないメディアは『巨大な陰謀だ』と騒ぎ立てている。このギャップ、最高のドキュメンタリーになりませんか?」
「確かに、事実は小説よりも奇なり、だな。巨大な社会的影響力を持つヒーローが、一人の不器用な父親として新しい命と向き合っている。誰もがほっこりする、素晴らしいニュースだ」
shimoはノートパソコンのキーボードに手を置いた。この心温まる真実を、パニックに陥っている日本の読者に向けてどうやって伝えようか。そう考え始めた時だった。
彼のもう一つのスマートフォンが、けたたましいアラート音を鳴らした。 画面には、日本の気象庁からの緊急速報が赤い文字で点滅していた。
『東北南部および北陸地方、本日午前11時をもって梅雨入りしたとみられると発表』
shimoは画面を見つめ、ふと窓の外を見た。東京の空はどんよりとした雲に覆われ始めている。 「……梅雨入りか。遅すぎるくらいだったが、ようやく農家の人々も一息つけるな」
しかし、この気象庁の発表が、遠く離れたロサンゼルスの「大谷のパタニティ・リーブ」というニュースと奇妙な化学反応を起こし、日本の地方都市で前代未聞の大騒動を巻き起こすことになるとは、この時のshimoは知る由もなかった。
第二章:ひび割れた大地と、雨乞いの男たち
2026年という年は、日本の農業関係者にとって「呪われた年」として記録される寸前だった。
地球沸騰化という言葉が定着して久しいこの時代、気候変動はもはや遠い未来の警告ではなく、目の前の現実として人々の生活を脅かしていた。春先から異常な少雨が続き、本来ならば恵みの雨に潤うはずの6月中旬になっても、東北南部から北陸にかけての空は皮肉なほどに青く澄み渡っていた。
shimoは先日、取材で山形県にある知人の果樹農家を訪れていた。そこでの光景は、ジャーナリストとしての彼の胸を重く締め付けるものだった。
見渡す限りのサクランボ畑。しかし、葉は生気を失って黄色く縮れ、本来ならば宝石のように赤く輝くはずの果実は、水分を失ってシワシワになりかけていた。土は乾ききってひび割れ、歩くたびにパサパサと乾いた音を立てた。

「もう限界だべ。あと三日、あと三日雨が降らねえと、今年の収穫は全滅だ。それどころか、木そのものが枯れちまう」
顔の皺に土埃を詰まらせた初老の農家、佐藤は、絶望的な声でそう吐き捨てた。地域の用水路は干上がり、地下水を汲み上げるポンプも過負荷で悲鳴を上げている。農業という、自然の摂理に完全に依存した営みの脆さを、これほど痛感する時はなかった。
そして6月19日の夜。 追い詰められた佐藤をはじめとする地域の農家たちは、半ばヤケクソで地元の公民館に集まっていた。現代の科学技術が及ばないのなら、もはや神頼みしかない。彼らは倉庫の奥から埃を被った和太鼓を引っ張り出し、何十年ぶりかに行われる「雨乞いの儀式」という名目の、悲壮な宴会を開いていた。
ブルーシートが敷かれた公民館の畳の上には、安い日本酒の一升瓶と、乾き物のツマミが散乱している。彼らは酔いに任せて太鼓を叩き、奇妙な踊りを踊りながら、天に向かって雨を懇願した。
「降れ! 降ってくれぇ! 龍神様よぉ!」
その光景は、客観的に見れば滑稽かもしれない。しかし、そこには生活を懸けた人間たちの、切実でシリアスな祈りが込められていた。shimoは、彼らから送られてきたその宴会の動画を見て、現代社会における人間の無力さを思い知らされると同時に、彼らの底抜けのバイタリティに奇妙な感動を覚えていた。
そして、運命の6月20日、午前11時。 気象庁からの「梅雨入り発表」の速報が、佐藤たちのスマートフォンに一斉に届いた。
「おおおおっ!! 降るぞ! ついに雨が降るぞ!!」
「気象庁が言ったんだ、間違いない! 空を見ろ、雲が厚くなってきた!」
公民館で雑魚寝していた農家たちは飛び起き、歓喜の雄叫びを上げた。ひび割れた大地を潤す、待望の雨雲が確実に接近していた。彼らにとって、それは単なる気象現象の变化ではなく、命を繋ぐ奇跡そのものだった。
しかし、情報過多の現代社会の罠が、ここで発動した。
梅雨入りの速報から遅れることわずか数分。各メディアのニュースアプリが、一斉にトップニュースを切り替えた。球団からの正式発表を受け、SENAが伝えていた情報が裏付けられたのだ。
『速報:ドジャース大谷翔平、第2子誕生でパタニティ・リーブ取得! スタメン外れの理由は「新たな命の誕生」』
歓喜に沸く公民館のテレビ画面にも、テロップと共にそのニュースが大々的に報じられた。 酒が抜けきっていない佐藤の濁った瞳が、テレビ画面とスマートフォンの画面を交互に見つめた。そして、長年の過酷な農業生活で鍛え上げられた彼の脳内で、二つの全く無関係な情報が、信じられないほどの飛躍をもって結びついてしまった。
「おい……みんな、見ろ! 大谷のところに、赤ん坊が生まれたぞ!」 佐藤が叫ぶと、周りの農家たちも画面に釘付けになった。
「ちょうど今、だ! 今、梅雨入りが発表されて、同時に赤ん坊が生まれたんだ!」 佐藤の声は震えていた。
「これは……偶然じゃねえ。あの凄え大谷の赤ん坊だぞ? きっと、龍神様の生まれ変わりに違いねえ! 大谷の赤ん坊が、俺たちの村に恵みの雨を連れてきてくれたんだ!!」
「なんだって!?」
「いや、あり得るぞ! あの大谷ならやりかねねえ!」
「大谷ベビー、バンザイ! 恵みの雨、バンザイ!!」
論理的な思考回路など、もはや彼らには必要なかった。絶望の淵から救い出された安堵感と、国民的ヒーローの慶事がもたらした高揚感。それらが融合し、彼らは「大谷の第2子が雨乞いの祈りを聞き届け、雲を呼んだ」という、現代の神話を生み出してしまったのだ。
「酒だ! 酒を持ってこい! 祝いの席だ!!」
「雨乞いダンスじゃねえ、これからは大谷ベビーの誕生祝いダンスだ!」
公民館は、前夜の悲壮感から一転し、狂喜乱舞の渦に包まれた。彼らは太鼓の代わりに空き缶を叩き、乾ききった喉に再び酒を流し込んだ。 この滑稽だが圧倒的に幸福な誤解は、SNSを通じて瞬く間に拡散された。

『山形の農家たち、大谷第2子誕生を「雨を呼ぶ神の子」として崇め、どんちゃん騒ぎ中』
『北陸の雨乞い儀式、大谷パパの産休ニュースで謎の感謝祭に発展』
東京の書斎でこの惨状(?)を追っていたshimoは、熱いコーヒーを吹き出しそうになった。
「無茶苦茶だな……。だが、これもまた人間の強さか」
ロサンゼルスのビバリーヒルズでオムツと格闘している大谷本人は、まさか自分の赤ん坊が、遠く離れた日本の東北地方で「天候を操る神の子」として崇められ、農家たちを狂喜させているとは夢にも思っていないだろう。
しかし、世界のどこかで起きた一つの幸せな出来事が、遠く離れた誰かの心を(勘違いであれ)救うことがある。情報化社会のバグが生み出したこの温かい連鎖に、shimoはジャーナリストとしての鋭い視点を一時忘れ、ただ一人の人間として深く、温かい笑いを漏らした。
だが、この「幸福な誤解の連鎖」は、日本国内にとどまらなかった。 世界は繋がっている。舞台は海を越え、歴史と伝統が息づくヨーロッパ、ベルギー王国へと移ろうとしていた。
第三章:ラーケン宮殿の静かなる危機と、若き王女の微笑み
時差により、日本が狂騒の渦に包まれていた頃、ヨーロッパの中心部、ベルギーの首都ブリュッセルは穏やかな午前を迎えていた。
この日、ブリュッセル郊外の美しい森に囲まれたラーケン宮殿では、歴史的な外交行事の準備が進められていた。日本国の天皇・皇后両陛下が、国際親善のための公式訪問としてベルギーに到着されたのだ。

2026年現在の国際情勢は、決して平穏とは言えなかった。大国間の覇権争い、地域紛争の火種、そして国境を越えるサイバーテロ。分断と緊張が世界を覆う中、武力も経済的制裁力も持たない「象徴」である皇室・王室の外交は、文化と相互理解というソフトパワーを通じて、国家間に目に見えない強靭な絆を結ぶ極めて重要な役割を担っていた。
特に日本とベルギーの皇室・王室の親交は古く、幾世代にもわたって温かい関係が築かれてきた。この日も、両陛下を歓迎する壮麗なセレモニーが企画されており、ベルギー王室側の主賓として、次期王位継承者である24歳のエリザベート王女がその準備の陣頭指揮を執っていた。
知的で語学堪能、そして現代的な感覚を持つエリザベート王女は、国民から絶大な人気を集める次世代のリーダーであった。彼女は両陛下に最高の敬意と「おもてなし」を示すため、式典の細部にまで自ら目を通していた。
しかし、どんなに完璧な準備をしていても、魔物は細部に宿るものである。
式典開始まであと30分と迫った頃。宮殿の壮麗なホールの一角に設けられた音響ブースで、若きベルギー人の音響スタッフ、ジャンは青ざめていた。
彼は、両陛下が入場される際に演奏されるオーケストラまでの「つなぎ」のBGMとして、日本の伝統的で祝祭感のある楽曲を流すよう指示されていた。しかし、極度の緊張と不慣れな日本文化への知識不足から、彼は用意されていた公式のプレイリストではなく、手元の端末で「Japan, Most famous, Celebration song(日本、最も有名、お祝いの曲)」と慌てて検索してしまったのだ。
AIが弾き出した検索結果のトップには、現在世界中のネットを席巻している「ある楽曲」が表示されていた。 それは、大谷翔平の第2子誕生に沸き立つファンたちが、SNS上で狂ったようにリピート再生している「背番号17の軽快な応援歌(あるいはスタジアムでの登場曲)」であった。
「よし、これだ。再生回数も桁違いだ。日本の国を挙げてのお祝いの曲に違いない」
ジャンは安堵の息をつき、そのポップでアップテンポなデジタルサウンドを、厳かな宮殿の音響システムにセットした。もしこのまま両陛下が入場された瞬間に、スタジアムを揺るがすようなベース音と共に「オオタニ!」と叫ぶ合いの手が入った曲が流れてしまえば、国際的な外交儀礼上の大事故(プロトコル違反)となることは火を見るより明らかだった。
その絶体絶命の危機に気づいたのは、最終確認のためにホールを足早に歩いていたエリザベート王女だった。
彼女は音響ブースのモニターに映し出された、奇妙な日本語のタイトルと、それに不釣り合いなポップなアートワークを見逃さなかった。彼女はオックスフォード大学留学時代から日本の現代文化にも深い興味を持っており、当然、現在進行形で世界を熱狂させている「Shohei Ohtani」の存在とその熱狂ぶりを知っていた。
「待って、ジャン」 王女は静かに、しかし威厳のある声で音響ブースに足を踏み入れた。
「ひぃっ! は、はい、殿下!」
「あなたがセットしているその曲は、日本の素晴らしい楽曲には違いないけれど、今日の公式な歓迎式典には少し……エネルギーに満ち溢れすぎているかもしれないわ」
王女はモニターを指差した。 「これは、世界で最も偉大なベースボールプレイヤーの一人、ミスター・オオタニのテーマソングよ。しかも私のスマートフォンに入ったニュースによれば、彼は数時間前に第2子を授かったばかり。日本の人々は今、この曲を彼への祝福のために歌っているの」
ジャンは血の気を失い、震える手で即座に設定をキャンセルした。 「も、申し訳ございません! 私はてっきり、これが日本の伝統的な祝歌だと……!」
「構わないわ。AIの検索アルゴリズムは、時として文脈を理解しないから」 エリザベート王女は優しく微笑み、あらかじめ用意されていた正統なクラシックのプレイリストを指示した。
「でも、ジャン。あなたの選曲は完全に間違っていたわけではないわ。今日という日は、日本の両陛下をお迎えする素晴らしい日であると同時に、世界中に喜びをもたらす新しい命が生まれた日でもあるのだから」
王女はいたずらっぽくウインクをした。
「この曲は、式典が終わった後のプライベートな晩餐会の時に、こっそり流すことにしましょう。両陛下も、自国の英雄の慶事を、遠く離れたベルギーの地で知れば、きっとお喜びになるはずよ」

「……はい、殿下。ありがとうございます!」 ジャンは深く一礼し、冷や汗を拭った。
こうして、ベルギーの王宮を舞台にした前代未聞のBGM誤爆事件は、若き王女の深い教養と機転、そして粋な計らいによって未然に防がれた。
この一連の出来事は、現場の片隅にいた公式記録係を通じて、極秘裏に一部のメディア関係者にリークされた。そして、SENAが持つ独自のヨーロッパ・ネットワークを通じて、東京のshimoの元へと届けられたのである。
第四章:バタフライ・エフェクトは希望の歌を歌う
東京の書斎。 時刻は午後を回り、窓の外では、農家たちが待ち望んだ「恵みの雨」が、アスファルトを静かに濡らし始めていた。
shimoは、パソコンのモニターに三つのテキストファイルを並べていた。
一つは、ロサンゼルスのビバリーヒルズで、巨大な手で小さな紙オムツと格闘し、愛犬に振り回されている世界最強のアスリートの姿。 一つは、日本の東北地方で、ひび割れた大地を潤す雨を「大谷ベビーの奇跡」と信じて疑わず、狂喜乱舞している農家たちの姿。 そしてもう一つは、ベルギーの厳かな宮殿で、現代のアルゴリズムが生み出した危機を、スマートな知性とユーモアで乗り越えた若き王女の姿。
地理的にも、社会的立場も、全く接点のない三つの出来事。 しかし、2026年6月20日というこの一日において、それらは「大谷翔平の第2子誕生」という一つのニュースをハブ(結節点)として、見事に繋がり合っていた。
「まるで、幸福なバタフライ・エフェクトだな」 shimoは独り言を呟き、キーボードを叩き始めた。
蝶の羽ばたきが遠く離れた場所で竜巻を起こすというカオス理論。現代のSNS社会では、悪意あるフェイクニュースや誹謗中傷がバタフライ・エフェクトを引き起こし、誰かの人生を破壊してしまうことがあまりにも多い。
しかし、今日起きたことは違った。 ロサンゼルスでの一つの生命の誕生が、情報として世界中を駆け巡り、日本の農家に希望を与え、ベルギーの宮殿に小さな笑いと機転をもたらした。情報の誤配や勘違いが含まれていたとしても、そこにあるのは「誰かを祝福したい」「安堵したい」「敬意を払いたい」という、人間の根源的な、そして善意に満ちた感情だけだった。
「AIには、このおかしみは理解できないだろう」
shimoは記事の筆を進めた。 アルゴリズムは、大谷のニュースを「エンゲージメント(反応)が高いデータ」として処理するだけだ。農家の雨乞いを「非科学的な行動」と分類し、ベルギーでのBGM選曲ミスを「エラー」として処理するだろう。
しかし人間は違う。 人間は、全く関係のない事象の間に物語を見出し、勘違いを笑い飛ばし、ピンチをユーモアで切り抜ける力を持っている。どんなに社会が分断され、気候変動が生活を脅かそうとも、この「人間臭さ」がある限り、世界はまだ捨てたものではない。
ピコン、とSENAから再びメッセージが入った。 今度は動画ファイルが添付されている。
『shimoさん、LAの現地カメラマンからの隠し撮り……じゃなくて、奇跡の一枚です。確認して下さい』
動画を開くと、ビバリーヒルズの豪邸の裏庭らしき場所が映っていた。 そこには、大谷翔平が立っていた。彼は左腕に小さな赤ん坊を抱き、右手で器用に哺乳瓶を持たせている。その足元では、遊び疲れたデコピンが丸くなって眠っていた。
彼らを取り囲むカリフォルニアの夕暮れは、まるで世界中の祝福を集めたかのように黄金色に輝いていた。大谷の表情は、グラウンドで見せる鬼神のようなそれとは全く違う、ただの優しく、少し疲れた父親の顔だった。
『完璧なオムツ替えはまだマスターしていないようですが、ミルクをあげる才能はメジャー級みたいですね』 SENAからのメッセージには、笑っている絵文字が添えられていた。
shimoは静かに微笑み、記事の最後の段落を打ち込んだ。
> 彼がグラウンドに戻ってくる時、世界は再び背番号17に熱狂するだろう。しかし私たちは忘れない。彼がスタメンから消えたあの一日、世界中でどれほど奇妙で、滑稽で、そして愛すべき大騒動が起きていたかを。 > 雨を降らせた男たちと、機転を利かせた王女、そしてオムツと格闘した父親。彼らが織りなしたこの隠密産休の物語は、どんな記録よりも長く、私たちの記憶の中で温かく輝き続けるはずだ。
書き上げた原稿を送信ボタンで編集部に送ると、shimoは深く背伸びをした。
エピローグ:雨上がりの空へ
翌朝のニュースは、世界が少しだけ優しい場所になったことを伝えていた。
日本の東北・北陸地方では、一晩降り続いた恵みの雨が大地を深く潤した。ニュースのインタビューに答える農家の佐藤は、泥だらけの顔をほころばせながら「大谷さんの赤ん坊に感謝だべ。秋には最高のサクランボを送らねえとな!」と、カメラに向かって豪快に笑っていた。科学的根拠は皆無だが、彼の笑顔には確かな希望が満ちていた。
ベルギーでは、天皇皇后両陛下の歓迎式典が厳粛かつ和やかに終了したことが報じられた。公式な報道には一切出なかったが、晩餐会の最中、オーケストラが突如としてアップテンポな曲をジャズ風にアレンジして演奏し、両陛下とエリザベート王女が楽しそうに言葉を交わしたという噂が、まことしやかに囁かれていた。
そして、ロサンゼルス。 球団の公式SNSは、大谷翔平が明日の試合からチームに合流することを正式に発表した。短い声明の最後には、こう付け加えられていた。
『彼は、新しいチームメイト(ベビー)との契約交渉(オムツ替え)に少々手こずったようですが、グラウンドでの準備は万端です』
shimoはコーヒーカップを手に、窓を開けた。 東京の空は、昨日の雨が嘘のように晴れ上がり、雨上がりの澄んだ空気が街を包み込んでいた。遠くの空に、うっすらと虹が架かっているのが見える。
世界はノイズに満ち、問題は山積みだ。気候危機も、国際的な緊張も、簡単には解決しない。しかし、人間社会は時折、こういう奇跡のような一日を挟み込みながら、少しずつ、不器用に前へ進んでいくのだ。
「さて、今日も一日が始まるか」
shimoは新しく立ち上げたテキストエディタに向かい、キーボードに指を置いた。 世界はまだ、語るべき物語に溢れている。そしてその物語は、今日よりも少しだけ良い明日へと続いていると、彼は確信していた。
































