仮想と現実の境界線で(架空のショートストーリー)
2026年2月28日、土曜日の冷気
令和8年、2026年。人類はついに「体験」すらも完全にデータ化することに成功した。網膜投影と全身の触覚スーツを連動させた次世代型VRデバイスの普及により、誰もが自宅の快適なソファに座ったまま、マリアナ海溝の底を歩き、月面のクレーターを飛び跳ね、そしてエベレストの頂に立つことができるようになった。
吹雪による凍傷のリスクも、滑落の恐怖も、高山病の苦しみもない。ただ圧倒的な絶景だけを、ボタン一つでダウンロードできる時代。「登山」という行為は、極めて安全で、手軽で、そして退屈な娯楽へと姿を変えていた。
しかし、2026年2月28日の早朝。氷点下十五度を下回る現実の冬山、その登山口に立つ一人の男がいた。
彼の名は、shimo。
時代遅れの登山家、shimo
shimoの吐く息は白く、濃く、そして重かった。彼はVRゴーグルではなく、使い込まれたゴーグルを額に上げ、最新の触覚スーツではなく、何層にも重ね着した防寒具に身を包んでいた。背中には、数日分の食料とテント、命綱となるロープが詰め込まれた、ズシリと重いバックパック。
「相変わらず、物好きだね。shimo」
背後から声がした。振り返ると、そこには彼の唯一にして最高のパーティ仲間であるSENAが立っていた。彼女もまた、この便利な時代に逆行するように、あえて「自分の足」で登ることにこだわる数少ない本物の登山家だった。
「物好きはお互い様だろう、SENA。こんなに冷え切った土曜日の朝に、暖かいベッドを抜け出してくるなんて」
shimoが笑うと、SENAも白い歯を見せて笑った。彼女のザックのサイドポケットには、無骨な形をしたブリキの缶がねじ込まれている。出発前、彼女は「今日は特別な日だからね。お守りを持ってきた」とだけ言い、中身については秘密にしたままだった。
「特別な日、か。確かに今日は、エベレストに初登頂したエドモンド・ヒラリーの誕生日らしいな」
「それもあるけど、もう一つあるの。まあ、それは山頂に着いてからのお楽しみ」
SENAは悪戯っぽくウインクすると、ピッケルを雪面に突き立てた。
「行こうか、shimo。私たちが目指すのは、データで作られた嘘っぱちの標高なんかじゃない。自分自身の、内なる頂よ」
二人のアイゼンが硬く凍った雪を噛み砕く音が、静寂に包まれた冬山に響き渡った。
白銀の迷宮へ
凍てつく風と、削られる体力
標高が上がるにつれ、山の表情は残酷なまでに険しさを増していった。木々は姿を消し、視界を遮るのは吹き荒れる雪と、天を突くような鋭い岩肌のみ。
VR登山であれば、ここで「天候設定」をいじれば済む話だ。しかし、現実は容赦がない。骨の髄まで凍りつくような冷気がウェアの隙間から入り込み、容赦なく体力を奪っていく。一歩足を踏み出すごとに、肺は酸素を求めて悲鳴を上げ、太ももの筋肉は焼けるように熱く痛んだ。
「大丈夫か、SENA!」
吹き荒れる強風の中、shimoは声を張り上げた。数メートル後ろを歩くSENAの足取りが、目に見えて重くなっている。
「平気……! まだ、いける……!」
SENAの強がりな声が風にかき消されそうになる。しかし、彼女のゴーグルの奥の瞳は、決して諦めの色を見せてはいなかった。彼女もまた、この苦痛の先にある「何か」を求めているのだ。
限界の気配が、二人に忍び寄っていた。
立ち止まるか、進むか
突然、天候が急変した。先程までの強風が、猛烈な吹雪へと姿を変えたのだ。視界は完全にホワイトアウトし、数メートル先のSENAの姿すら霞んで見える。
「shimo! 一旦、ビバーク(緊急露営)しよう!」
SENAの切羽詰まった声がインターコム越しに響く。しかし、ここは風を遮る岩陰すら無い急斜面の途中で、テントを張るスペースなどどこにもなかった。立ち止まれば、そのまま凍死を待つことになる。
「ダメだ! ここで止まったら終わりだ! もう少し上に、小さな雪洞を掘れるスペースがあったはずだ。そこまで頑張れ!」
shimoは自分を奮い立たせるように叫び、再びアイゼンを雪面に蹴り込んだ。指先の感覚はとうに失われ、自分の足が地面にどう着いているのかすら曖昧になっている。それでも、進むしかなかった。限界を超え、さらなる限界の向こう側へ。
一歩。また一歩。
それは、物理的な山との戦いであると同時に、自分自身の弱さとの戦いでもあった。「もう諦めよう」「VRで十分だったじゃないか」——頭の中に響く悪魔の囁きを振り払いながら、shimoはただひたすらに上を目指した。
限界の先にあるもの
分かち合う温もり
どれほどの時間が経っただろうか。永遠にも思える吹雪の中を彷徨い、二人はようやく、風を避けられる小さな岩の窪みに辿り着いた。雪を掘って即席の雪洞を作り、二人はその中に転がり込んだ。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」
SENAが荒い息を吐きながら、ゴーグルを外す。その顔は蒼白で、まつ毛には氷柱がぶら下がっていた。shimoも同じように息絶え絶えだったが、何とかバーナーに火を点け、雪を溶かしてお湯を沸かした。
温かい紅茶が胃の腑に落ちると、ようやく生き返った心地がした。
「よく頑張ったな、SENA。本当に、よく生きてここまで来られた」
shimoが言うと、SENAは少し照れくさそうに笑い、ザックからあのブリキの缶を取り出した。
「実はね、これ……」
缶を開けると、中には大きな一枚の丸いビスケットが入っていた。しかし、激しい登攀の衝撃で、そのビスケットは真ん中から綺麗に二つに割れてしまっていた。
「あーあ、割れちゃった」
SENAが残念そうに呟く。しかし、shimoはその割れたビスケットを見て、ハッとした。
一枚のビスケットが繋ぐもの
「今日、2月28日はね、エドモンド・ヒラリーの誕生日でもあるけど、『ビスケットの日』でもあるんだよ」
SENAは割れたビスケットの片方をshimoに差し出しながら言った。
「1855年のこの日、水戸藩の蘭医だった柴田方庵という人が、保存食としてのビスケットの製法を日本の大名に送ったんだって。それが、日本で初めてビスケットというものが記録された日」
shimoは、受け取った半分のビスケットをじっと見つめた。無骨で、少し焦げ目がついていて、市販の綺麗なお菓子とは程遠い。
「本来、ビスケットは軍隊の保存食として作られた、命を繋ぐための食べ物だった。だから、こんな極限状態の私たちにぴったりでしょ?」
SENAはそう言って、もう半分のビスケットをかじった。shimoもそれに倣って、ビスケットを口に運ぶ。素朴な甘さと、香ばしい小麦の香りが口の中に広がった。凍てついた体に、じんわりと温かいものが染み渡っていくのを感じた。
「……美味いな」
「でしょ? 一生懸命焼いたんだから。でも、割れちゃったのは計算外だったけど」
「いや」shimoは首を振った。「割れていて正解だったんだよ」
「え?」
「完璧な一枚のままだったら、俺たちはこれをどうやって分けた? ナイフで切ったか? それとも、そのままかじり合ったか? いずれにせよ、こんなに自然に『分け合う』ことはできなかったはずだ」
shimoは、手の中の半分のビスケットを見つめた。
「割れていたからこそ、俺たちはこれを分かち合うことができた。未来への不安も、今のこの苦しさも、そして……これから見るであろう景色への期待も」
割れてしまったことは、決して不完全さを意味するものではなかった。それは、他者と何かを共有するための、余白であり、優しさの形だったのだ。
「割って分かち合う優しさ、か。いい言葉ね」
SENAは優しく微笑み、残りのビスケットを口に放り込んだ。吹雪はまだ外で猛威を振るっていたが、雪洞の中には、確かな温もりが満ちていた。
誰も見たことのない景色
限界の突破
数時間後、奇跡的に吹雪が止んだ。
二人は雪洞から這い出し、再び頂上を目指した。ビスケットで得た小さなエネルギーと、何より「分かち合った」という事実が、二人の背中を力強く押していた。
空気はさらに薄くなり、手足は鉛のように重い。しかし、shimoの心は驚くほど澄み切っていた。VRでは決して味わえない、冷たい風の匂い、雪を踏みしめる音、そして隣で荒い息を吐きながらも同じ高みを目指す仲間の存在。そのすべてが、彼が「生きている」ことを強烈に実感させていた。
「shimo! あれ!」
先頭を歩いていたSENAが、ピッケルを振り上げて叫んだ。
彼女の指差す先、切り立った稜線の向こう側に、太陽の光に反射して黄金色に輝くピークが見えた。
「あと少しだ……!」
最後の力を振り絞り、這うようにして急斜面を登り切る。そして、二人はついに、その場所に立った。
山頂からの贈り物
目の前に広がっていたのは、言葉を失うほどの絶景だった。
雲海が眼下に広がり、その間から無数の峰々が島のように顔を出している。太陽の光が雪原を照らし、世界は白と青と黄金のコントラストに染め上げられていた。
それは、どんな高解像度のVRカメラでも決して捉えることのできない、圧倒的な「現実」だった。風の冷たさ、空気の薄さ、全身の筋肉の痛み。それらすべての苦難を経て初めて立ち現れる、奇跡のような景色。
エドモンド・ヒラリーは言った。『我々が征服するのは山ではなく、我々自身である』と。
shimoは今、その言葉の真の意味を理解した。彼らが超えたのは、山の標高ではなく、己の限界だったのだ。
「すごい……本当に、誰も見たことのない景色だね」
SENAが、涙ぐんだ声で呟いた。
「ああ。少なくとも、俺たち二人にとっての、最高の景色だ」
shimoは、SENAの肩を抱き寄せた。二人は何も言わず、ただその景色を目に、心に、深く焼き付けていた。
エピローグ:心に刻まれたお守り
下山、そして日常へ
無事に下山を果たした二人は、麓の小さなカフェで温かいコーヒーを飲んでいた。外はすっかり暗くなり、街は人工的な光に包まれていた。
「やっぱり、現実の山は最高だったね」
コーヒーカップで手を温めながら、SENAが満足そうに笑う。
「ああ。体が痛くて仕方ないけどな」
shimoも笑い返し、ポケットの中に手を入れた。そこには、小さな感触があった。雪洞の中で食べた、あのビスケットの小さな欠片だ。食べるのを惜しんで、無意識のうちにポケットの奥にしまっていたらしい。
新たな頂を目指して
shimoはその欠片を指先でそっと撫でた。
ただの小麦粉とバターの塊。しかし、彼にとってそれは、ただのお菓子ではなくなっていた。限界の淵でSENAと分かち合った温もり、己の弱さを乗り越えた証、そして、あの輝く山頂の記憶が詰まった、一生消えることのない「お守り」だった。
VRがどれほど進化しようとも、このポケットの中の欠片が持つ重みと、そこから蘇る感情の生々しさを再現することはできないだろう。
「次は、どこへ行こうか」
SENAが、目を輝かせて尋ねた。
「そうだな……」
shimoはコーヒーを飲み干し、窓の外に広がる夜空を見上げた。限界の向こう側を知った今の彼らには、どんな険しい道のりも、恐れるべきものではなくなっていた。
「もっと高い場所へ。まだ俺たちが、誰も見たことのない景色を探しに行こう」
ポケットの中のビスケットの欠片が、未来への希望と勇気を与えてくれるように、密かに熱を帯びた気がした。二人の次なる挑戦への物語は、ここからまた始まっていく。
