令和8年10月7日 『爆笑!ミスドの #推しドをあらわす1行 に命をかけた男の悲劇』

 

『爆笑!ミスドの「#推しドをあらわす1行」に命をかけた男の悲劇』(架空で空想のショートストーリー)※画像はAIによるイメージを含みます

第一章:冷たい秋風と、持たざる者の焦燥

2026年(令和8年)10月7日、水曜日。午前9時。

秋の深まりを告げる冷たい風が、アパートの錆びついた鉄階段を吹き抜けていく。隙間風に揺れる薄っぺらいカーテンの隙間から、灰色の雲に覆われた空が覗いていた。四畳半の窮屈な部屋の中央で、shimoは万年床に寝転がったまま、ひび割れたスマートフォンの画面を凝視していた。

年齢は32歳。職業、お笑い芸人。正確には「売れないピン芸人」である。SNSのフォロワー数は奇跡的に二桁を維持しているが、その大半はかつての同級生や、義理でフォローしてくれているバイト先の関係者たちだ。ライブに出演しても、チケットを買ってくれるのは身内だけ。ウケるどころか、舞台に出た瞬間に客席から同情に似たため息が漏れることすらある。

画面の中では、お笑いコンビ「たくろう」が漫才を披露していた。絶妙な間合い、予想を裏切る独特のワードセンス、そして何より、彼らにしか醸し出せない唯一無二の空気感。shimoは彼らの動画を観るたびに、腹を抱えて笑うと同時に、胸の奥を鋭い刃物でえぐられるような痛みを覚えていた。

「なんで俺には、これがないんだろうな……」

独り言が、冷えた部屋の空気に溶けて消えた。

shimoは起き上がり、窓の外を見た。遠くには、太陽の光を反射して輝く真新しいタワーマンションがそびえ立っている。その足元では、ブランド物のスーツに身を包んだ人々が、足早に駅へと向かっているのだろう。

彼らは生まれた時から恵まれたレールの上を歩き、洗練された教育を受け、豊かな人脈を築いてきたのかもしれない。一方の自分は、地方のしがない家庭に生まれ、特に誇れる学歴もなく、ただ「人を笑わせたい」という漠然とした思いだけで上京し、気がつけば30代に突入していた。

世の中のスタートラインは、決して横一列ではない。誰がどう見ても明らかなその事実を前に、shimoは幾度となく打ちひしがれてきた。あのタワーマンションに住む人々と、この隙間風だらけのアパートに住む自分。

彼我の差を埋めるものなど、この世には存在しないように思えた。だが、だからといって誰かを恨んでも腹は膨れない。配られたカードで勝負するしかないのだと、頭ではわかっている。わかっているのに、心がいつも別の答えを探してしまう。自分にないものを探し求め、他人が持っている輝きにばかり目を奪われてしまうのだ。

「腹減ったな……」

財布を開くと、銀色の硬貨が数枚、所在なげに転がっているだけだった。総額480円。これが、今のshimoの全財産である。とりあえず、この硬貨を何らかのカロリーに変換しなければ、今日の命を繋ぐことはできない。彼は色あせたパーカーを羽織り、外へ出た。

街はすでに活気に満ちていた。すれ違う人々は皆、何かの目的を持って歩いている。スマートフォンで株価のチャートを険しい顔で睨みつける中年の男性。イヤホンからの音声に頷きながら、流暢な英語で通話するビジネスウーマン。カフェのテラス席で、少しでも得なポイント還元キャンペーンの情報を交換し合う若者たちのグループ。誰もが、自分の生活をいかに豊かにするか、いかに損をせずに生きるかに必死になっている。その姿を見ていると、shimoは自分が社会の歯車にすらなれていない、道端の石ころのような存在に思えてきた。

だが、不思議なことに、そんな彼らの背中を眺めていると、心の底からふつふつと湧き上がるものがあった。彼らもまた、それぞれの場所で、それぞれの重圧と戦いながら懸命に息をしているのだ。派手に見えるあの女性も、実は見えない借金を抱えているかもしれない。効率よく生きているように見えるあの青年も、夜になれば孤独に押しつぶされそうになっているかもしれない。そう思うと、少しだけ彼らに親近感が湧いた。

第二章:運命の交差点、黄金のリングが並ぶ場所

目的もなく歩き続けていたshimoの足が、ふと止まった。

甘く、香ばしく、そしてどこか懐かしい香りが鼻腔をくすぐったのだ。見上げると、おなじみの看板が目に飛び込んできた。ミスタードーナツである。

ガラス張りの向こう側、明るく照らされたショーケースの中には、色とりどりのドーナツが行儀よく並んでいる。高級ホテルのラウンジで提供されるような何千円もするスイーツではない。たった百数十円、二百円弱で買えるささやかな食べ物だ。しかし、そこには確実に、人々の心をホッとさせる温かな魔法がかけられている。値段の高さや希少性だけで物の価値が決まるわけではないという当たり前の事実を、そのショーケースは雄弁に物語っていた。

shimoの視線が、店先のガラスに貼られた一枚の大きなポスターに釘付けになった。

『お気に入りのドーナツにキャッチフレーズをつけよう!』

『#推しドをあらわす1行 キャンペーン』

『10月7日(水)10:00スタート!』

日付は今日。時間はちょうど午前10時を回ったところだった。

ポスターの隅々まで、shimoの目は獲物を狙う鷹のように走った。

キャンペーンの概要はこうだ。

ミスタードーナツのいつもの人気レギュラー商品全17種の中から、自分のお気に入りのドーナツ(推しド)を選び、その推しポイントを表現した「オリジナルキャッチフレーズ」をつけてSNSに投稿するというもの。

応募媒体は公式X(旧Twitter)と公式TikTokの二つ。Xの場合は、公式アカウント(@misterdonut_jp)をフォローした上で、対象のキャンペーンポストに指定のハッシュタグ「#推しドをあらわす1行」をつけてキャッチフレーズを記載してポストする。17種の中から選ぶ場合は、ドーナツの名前も記入する必要がある。TikTokの場合は、公式アカウントをフォローし、応募動画のコメント欄に書き込むか、同じくハッシュタグをつけて自作の動画を投稿する。

応募期間は本日から10月27日(火)の23時59分59秒まで。

そして、shimoの心臓を最も激しく跳ね上がらせたのは、次の文言だった。

『ご応募いただいた作品の中から選ばれたキャッチフレーズは、ミスタードーナツ公式SNSアカウントや広告、Webサイト、店頭等で活用・掲載させていただく予定です』

「これだ……!」

shimoの脳内で、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。

お笑い芸人として全く芽が出ない現状を打破する、一発逆転のビッグチャンス。この全国規模の大手チェーンのキャンペーンで、誰も思いつかないような、大喜利の回答のような爆笑必至のキャッチフレーズを生み出し、見事採用されればどうなるか。

「『あの秀逸なコピーを考えたのは誰だ!?』ってネットで話題になって、俺のXのアカウントが特定される。フォロワーが一気に何万人にも膨れ上がって、テレビの放送作家から声がかかる……!」

捕らぬ狸の皮算用もいいところだが、追い詰められた人間の想像力は時として無限の広がりを見せる。彼はすでに、深夜のバラエティ番組でひな壇に座り、有名MCから「あのミスドのキャッチコピー、君が考えたんだって?」と話を振られる自分の姿を明確に思い描いていた。

さらにポスターには、こんな情報も書かれていた。

『人気商品をリニューアル! ミスド、おいしさ追求宣言!』

9月30日より、人気レギュラー商品であるドーナツ、パイ、飲茶がおいしさアップのためにリニューアルされたというのだ。各生地の特長的な食感はそのままに、トッピングとの相性やくちどけ、香ばしさ、コクなどがさらに高められているらしい。

「リニューアル直後の今なら、誰も気づいていない新しい魅力に焦点を当てたボケができるはずだ!」

shimoは決意を固めた。ポケットの全財産480円を握りしめ、自動ドアをくぐる。

第三章:チョコファッションと格闘する大喜利タイム

店内は、平日の午前中にもかかわらず、様々な人たちで賑わっていた。

窓際の席では、制服姿の女子高生二人が、ストロベリーリングを片手にスマートフォンの画面を覗き込んで笑い転げている。彼女たちはきっと、学校での人間関係や、テストの点数、あるいは淡い恋の悩みを抱えながらも、このドーナツの甘さに救われているのだろう。

その奥の席には、くたびれたスーツを着た初老の男性が、目を閉じてコーヒーの香りを嗅ぎ、ゆっくりとポン・デ・リングを口に運んでいた。その背中からは、長年家族を養うために頭を下げ続け、理不尽な要求にも耐えてきた歴史が滲み出ている。

レジの近くでは、小さな男の子が「これがいい!」とエンゼルクリームを指差し、母親が「ちゃんと座って食べるんだよ」と優しく微笑みかけている。

誰一人として、同じ人生を歩んでいる者はいない。それぞれが抱える荷物の重さも、歩いている道の色も違う。しかし、この瞬間、この店内にいる彼らは皆、自分自身の人生という物語の真ん中を堂々と歩いているように見えた。誰もが誰かの代わりではない、唯一無二の存在として、今ここでドーナツの甘さに癒されている。

shimoはレジに進み、全財産から200円弱を投じて「チョコファッション」を一つと、安いドリンクを注文した。

お気に入りのドーナツを選ぶにあたり、ポン・デ・リングやオールドファッションといった王道も考えたが、ボケしろ(お笑い的な余白)を考えた結果、チョコファッションに行き着いたのだ。サクサクの生地に、一部分だけかかっているチョコレート。この「不完全なコーティング」という形状に、何か笑いの神が宿っている気がしたのだ。

トレイを受け取り、一番隅の席に座る。

目の前には、リニューアルされてさらに香ばしさが増したというチョコファッションが鎮座している。ミルク風味の生地と、艶やかなチョコレート。美しいコントラストだ。

shimoはスマートフォンを取り出し、Xの画面を開いた。ミスタードーナツ公式アカウント(@misterdonut_jp)をフォローし、ハッシュタグ「#推しドをあらわす1行」と「チョコファッション」という文字を入力する。

あとは、最強のキャッチフレーズを1行、打ち込むだけだ。

「さあ、笑いの神よ、俺に降りてこい……!」

shimoの大喜利タイムが幕を開けた。

たくろうの動画で見たような、独特の視点。誰もが「その発想はなかった!」と膝を打ち、そして腹を抱えて笑い転げるような1行。

第一案:

『半分だけチョコかかってるけど、作ってる途中でチョコ足りなくなったん?』

……ダメだ。ただのクレーマーみたいだ。面白くもなんともないし、ミスドの担当者がこれを見て採用するわけがない。

第二案:

『サクサクすぎて、食べた瞬間に口の水分全部持ってかれるけど、それがたまらんのよ』

……いや、食感の良さを伝えるどころか、ネガティブキャンペーンになっている。リニューアルでくちどけが良くなったと言っているのに、それに喧嘩を売ってどうする。

第三案:

『チョコファッション。それは、甘さと香ばしさのハーフ&ハーフ。まるで俺の人生のようだ』

……寒すぎる。ポエムか。お笑い芸人が一番やってはいけない「自分に酔っている感」が満載だ。

時間は無情にも過ぎていく。11時になり、12時になり、店内はランチタイムの客でさらに混雑し始めた。

shimoは頭を抱えた。考えれば考えるほど、浮かんでくるのは陳腐で、寒々しくて、誰かの真似事のような言葉ばかりだった。

「なんで俺は、こんなにもつまらない人間なんだ……」

自分の才能のなさに絶望しそうになる。ネットを開けば、同世代のクリエイターたちが気の利いた言葉でバズを生み出し、称賛を浴びている。彼らには生まれ持ったセンスがあり、言葉を紡ぐ環境があったのだろう。それに比べて自分はどうだ。四畳半の部屋で、他人のネタ動画を見て嫉妬するだけの日々。自分には何もない。持っているものなんて何一つない。

しかし、ふと顔を上げ、再び店内の人々に目を向けた。

女子高生たちも、サラリーマンも、親子連れも、みんなただ純粋に、目の前のドーナツを楽しんでいる。彼らは「誰かに褒められるため」にドーナツを食べているわけではない。誰かにどう見られるかではなく、ただ自分が「美味しい」と感じるから、ここにいるのだ。

「俺は、何をしようとしてるんだ……?」

shimoは自問した。自分は今、ドーナツの魅力に目を向けているのではなく、「面白いキャッチフレーズを考えた俺」を世間に見せつけようとしているだけではないか。本当に大切なのは、他人の評価や世間の物差しに自分を合わせることではない。自分がどう感じたか、どうありたいか、その真っ直ぐな思いに正直になることのはずだ。

無理に他人を羨む必要はない。自分にない才能を嘆く暇があるなら、今自分が持っている感情を、そのまま受け入れればいい。

第四章:暴走の果ての悲劇、そして奇跡の誤送信

時計の針は午後2時を回ろうとしていた。

目の前のチョコファッションは、すっかり冷え切ってしまっているが、それでもその堂々たる佇まいは失われていない。

shimoは、極度の緊張と疲労で震える手を伸ばし、チョコファッションを手に取った。

とりあえず、ボケるにしても何にしても、まずは味わわなければ始まらない。

大きく口を開け、かぶりつく。

「サクッ」

心地よい音が脳内に響き渡る。

9月30日にリニューアルされたという生地は、嘘偽りなく、圧倒的なミルク風味と香ばしさを保っていた。サクサクとした食感の後に、ふわっと広がる生地のコク。そこに、絶妙な甘さのチョコレートが絡み合う。くちどけも以前より格段に良くなっている気がする。

「……美味い」

その一言しか、頭に浮かばなかった。

奇をてらう必要など、どこにあったというのか。この完璧なバランスで作られたお菓子に対して、小賢しい大喜利など無粋の極みだ。

shimoの目から、なぜか一筋の涙がこぼれ落ちそうになった。人生が上手くいかず、金もなく、誰からも認められない日々の中で、この100円ちょっとのドーナツだけは、いつだって平等に、変わらない優しさで自分を包み込んでくれた。

「ただ、美味しい。それだけで十分じゃないか」

shimoは、ありのままの感動を文字にしようと決めた。

狙ったボケではなく、素の感想。自分の心から湧き出た、本物の言葉を。

彼はスマートフォンの画面に向かい、キーボードを叩き始めた。

打ちたかった文章はこうだ。

『サクサクの生地と甘いチョコが最高。変わらない美味しさに安心する。』

これに「#推しドをあらわす1行」「チョコファッション」を添えて、堂々とポストするのだ。採用されるかどうかはもうどうでもいい。ただ、このミスタードーナツという存在に対する感謝を表明したかった。

しかし。

数時間に及ぶ大喜利の苦悩による脳内疲労、朝から何も食べていなかったことによる極度の低血糖、そして、涙で滲んだ視界と、古くて反応の鈍いスマートフォンのタッチパネル。

それらすべての悪条件が奇跡的な確率で重なり合い、shimoの震える指先は、絶望的なフリック入力を連発してしまった。

彼が実際に打ち込み、そして確認もせずに「ポストする」ボタンを押してしまった文章は、次のようなものだった。

『サクさくの生地トあもいチョこが最の高。わかンない美味しさに案震する、、 #推しドをあらわす1行 チョコファッショソ』

画面に表示された「ポストを送信しました」の文字を見て、shimoはふと我に返り、自分のタイムラインを確認した。

そこには、先ほどの文章が、世界のインターネットの海に向けて高らかに放たれていた。

「……えっ?」

血の気が一気に引いた。

サクさく? ト? あもい? 最の高? わかンない美味しさ? 案震する?

日本語として崩壊している。誤字脱字のオンパレードだ。特に後半の「わかンない美味しさに案震(あんしん)する、、」に至っては、もはや恐怖すら感じる狂気の構文である。

「やっちまった……!」

慌てて削除ボタンを探そうとしたが、古いスマホが運悪くフリーズし、画面が動かなくなってしまった。

「動け! 動けよバカ!!」

画面を連打するが、黒い画面にリンゴのマークが虚しく表示されるだけ。再起動が始まってしまった。

shimoは頭を抱え、テーブルに突っ伏した。

お笑い芸人として爪痕を残すどころか、ただのヤバい奴としてデジタルタトゥーを刻んでしまった。あのミスドのキャンペーン事務局の人たちも、これを見たら「なんだこの意味不明なポストは」と眉をひそめるに違いない。

再起動が終わるのを待つ気力もなく、shimoは逃げるように店を飛び出し、冷たい風が吹く街をトボトボと歩いてアパートへと帰った。

第五章:拡散の嵐、そして見出した「自分の価値」

狭くて薄暗い四畳半の部屋に戻ったshimoは、布団に潜り込み、現実逃避のために深い眠りについた。

目が覚めたのは、すっかり日が暮れた午後7時過ぎだった。

部屋の中は暗く、遠くから聞こえる車の走行音だけが響いている。

「あーあ、俺の人生、ずっとこんな感じなんだろうな……」

充電器に繋ぎっぱなしだったスマートフォンを手に取る。

画面を点灯させた瞬間、shimoの心臓が飛び跳ねた。

通知のアイコンが、見たこともない数字を示していた。

「99+」

Xのアイコンの右上についた赤いバッジ。

恐る恐るアプリを開くと、通知欄が滝のように流れていた。

「〇〇さんがあなたのポストをリポストしました」

「〇〇さんがいいねしました」

「〇〇さんから返信があります」

あの日中のポストが、信じられない勢いで拡散されていたのだ。

インプレッション(表示回数)はすでに数十万を超え、いいねの数は万単位に届こうとしていた。

shimoは震える手で、リプライ(返信)や引用リポストのコメントを読み漁った。

『「あもいチョこが最の高」www わかりすぎる、チョコファッションのあの部分は最の高だよな!』

『「わかンない美味しさに案震する」ってパワーワードすぎないかww 美味しすぎて脳の処理が追いつかなくて震えてるのが伝わってくるw』

『ミスド愛が深すぎて知能が低下してるの最高に草』

『この絶妙な誤字脱字、計算してやってるなら天才だし、素なら奇跡だろ』

『なんか元気出た。私も明日チョコファッション買いに行って案震してくるわ』

画面に並ぶのは、嘲笑や罵倒ではなく、好意的な笑いと共感の声だった。

ネットの住人たちは、shimoの崩壊した文章の中に、計算されていない純粋な「ドーナツへの熱狂」を読み取り、それをシュールな面白さとして受け入れていたのだ。

狙ってひねり出した「大喜利的な上手いボケ」は、きっと誰の心にも引っかからなかっただろう。世の中には、言葉を巧みに操る人間など星の数ほどいる。

しかし、あの極限状態の中で、ただひたすらに「美味しい」という感動を伝えようとして空回りし、結果的に生み出された不器用な言葉の羅列。それこそが、人々の心の隙間に入り込み、笑顔を作ったのだ。

shimoの目から、今度こそ本当に涙が溢れてきた。

彼は悟った。

自分は、たくろうのように洗練されたワードセンスを持っているわけじゃない。気の利いた言い回しで世間を唸らせるような才能もない。

けれど、自分の中にある「好き」という感情の強さ、何かに感動する真っ直ぐな心、そして、それが不器用な形で漏れ出してしまうこの情けないキャラクターもまた、誰かを笑顔にできる価値を持っているのだ。

他人と自分を比べる必要なんてない。他人が持っている才能を羨み、自分が持っていないものを嘆くのは、もう終わりにしよう。

自分に欠けている部分を見るのではなく、自分が今持っている資質、自分の不器用さや情けなさも含めたこのキャラクターを、これからは大切に伸ばしていけばいい。

他人の評価や世間の物差しに幸せの基準を委ねるのではなく、自分が「最の高」だと思えるものを、胸を張って愛し抜けばいいのだ。

第六章:明日へ続くささやかな希望

一夜明けて、10月8日の朝。

shimoのポストの勢いは少し落ち着いたものの、フォロワー数は以前の100倍近くにまで増えていた。

ダイレクトメッセージには、いくつかのウェブメディアから「あのポストの真意について取材させてください」という依頼が届いていた。もちろん、テレビ番組からのオファーなどという夢のような話はないが、芸人としての小さな、しかし確実な第一歩を踏み出したような気がした。

相変わらず、アパートの部屋は狭くて寒い。

窓の外に見えるタワーマンションの住人たちと自分の間にある格差は、1ミリも縮まっていない。世界は不平等で、理不尽で、それぞれの環境には変えられない壁がある。

しかし、shimoの心の中にある景色は、昨日とは全く違っていた。

タワーマンションから出てくるスーツの男性も、コンビニで夜勤明けの疲れを癒している若者も、そして、この四畳半でスマートフォンを握りしめている自分も。

誰もが皆、自分の人生という舞台で、必死に汗を流しながら生きている。誰一人として、他人の人生の背景として生きているわけではない。それぞれが、それぞれの場所で、泥臭く、不格好に、しかし確かな熱量を持って自分の生を全うしているのだ。

「さてと、今日も行きますか」

shimoは色あせたパーカーを羽織り、部屋を出た。

財布の中には、昨日偶然見つけた千円札が一枚入っている。

彼が向かう先は、もちろんミスタードーナツだ。

今日はもう、奇をてらったボケを考えるつもりはない。

リニューアルされて、さらに美味しくなったドーナツたち。ポン・デ・リングも、オールドファッションも、エンゼルクリームも、すべてが彼を待っている。

「今日は、ポン・デ・黒糖にしてみようかな。あのあっさりした甘さに、また『案震』させてもらおう」

冷たい秋風が吹き抜ける街の交差点を、shimoは軽やかな足取りで歩いていく。

すれ違う人々の顔は、昨日よりも少しだけ明るく見えた。彼らに対する妬みや嫉みは、もう心のどこにも見当たらない。ただ、社会を構成する一人ひとりに対する深い敬意と、こんなささやかな幸せを提供してくれる世界への感謝だけが、胸の奥で温かく灯っていた。

ミスタードーナツの看板が見えてきた。

自動ドアが開き、甘い香りが彼を優しく出迎える。

shimoの人生は、これからもきっと失敗だらけで、空回りばかりだろう。

しかし、彼が彼自身の足で歩き続ける限り、その不器用な足跡は、いつか誰かをふっと笑顔にするための、かけがえのない轍となっていくに違いない。

「いらっしゃいませ!」

店員の明るい声に、shimoは満面の笑みで応えた。

彼の「 #推しドをあらわす1行 」を探す旅は、まだ始まったばかりだ。
(完)

このショートストーリーは、以下のサイトを参考にさせて頂きました。
https://www.misterdonut.jp/
https://www.misterdonut.jp/oshido1gyou_cp/
https://www.duskin.co.jp/news/2026/pdf/261006_01.pdf

令和8年10月6日 『ジョリーパスタで北イタリア縦断の旅に出よう』

 

『ジョリーパスタで北イタリア縦断の旅に出よう』(架空で空想のショートストーリー)※画像はAIによるイメージを含みます

終わりの始まりと、秋の風

2026年(令和8年)10月6日、火曜日。

壁に掛けられたカレンダーの数字を眺めながら、shimoは静かにコーヒーのカップを置いた。窓の外には、抜けるような秋の青空が広がっている。

長年勤め上げた中堅の機械メーカーを定年退職してから、数ヶ月が経っていた。

毎朝同じ時間に起き、満員電車に揺られ、分刻みで組まれたスケジュールをこなす。そんな四十年近く続いたルーティンが突然途絶えた時、shimoの心には、ぽっかりと得体の知れない穴が空いてしまった。それは解放感というよりも、むしろ凪いだ海の中に取り残されたような、静かな喪失感に近かった。

会社員時代のshimoは、決して華やかな舞台に立つタイプの人間ではなかった。彼の居場所は常に工場の片隅にある品質管理部門であり、マイクロメートル単位の図面と睨み合い、製品の微小な欠陥を未然に防ぐための地道な作業の連続だった。

入社当時の同期たちの中には、持ち前の社交性と弁舌の爽やかさを武器に営業部門のエースとなり、次々と大型契約を勝ち取って役員にまで登り詰めた者もいた。若い頃のshimoは、そんな彼らのまばゆいばかりの活躍を横目に、自分の目立たない業務に対して密かな葛藤を抱いた夜もあった。彼らのようにスポットライトを浴び、人々の喝采を集めるような資質が自分には欠けているのではないか。そう思い悩むこともあった。

しかし、幾度目かの大きなプロジェクトで、誰も気づかなかった設計の致命的なエラーを彼が発見し、会社を未曾有の危機から救った時、shimoは深く理解したのだ。

世の中の誰もが、スポットライトを浴びるために生まれてきたわけではない。華やかに言葉を操る才覚はなくても、静寂の中で物事の本質をじっくりと見極め、コツコツと信頼を積み上げていく粘り強さ。それこそが、自分に与えられたかけがえのない資質であり、自分の魂の形に最も適した生き方なのだと。

以来、彼は他人が見せる華々しい成果を羨むことをやめた。自分に無いものを嘆く時間があるのなら、今この手の中にある自分の得意なこと、自分の好きなことを極限まで磨き上げる。その静かな決意が、彼を定年まで立派に職務を全うさせた原動力だった。

とはいえ、仕事という大きな役割を下ろした今、彼の手元には途方もない「時間」だけが残されていた。

shimoは薄手のジャケットを羽織り、宛もなく秋の街へと歩みを出した。

街角の交差点、それぞれの人生の軌跡

火曜日の昼下がり。街は、日々の営みのリズムに合わせて静かに呼吸をしていた。

歩道を歩きながら、shimoは行き交う人々の姿をぼんやりと観察していた。

駅前のスーパーマーケットの前に掲げられた特売品の看板の前で、眉間に皺を寄せながらスマートフォンの電卓を弾いている初老の女性がいた。おそらく、隣町のスーパーの価格と10円、20円の違いを真剣に比較しているのだろう。

また、バス停のベンチでは、スーツ姿の若い男性が、SNSの画面をスワイプしながら深い溜息をついていた。画面の中には、誰かが投稿した高級なホテルでのディナーや、海外旅行のきらびやかな写真が映し出されているのが見えた。

若い頃の自分も、そうやって目に見える数字や他人の見栄えに心を振り回されていた時期があった。少しでも自分に有利な方を選びたい、絶対に損をしたくないと肩を怒らせて生きていると、不思議なことに他人が笑っている姿を見るだけで、胸の奥に黒い嫉妬の炎がちらつくようになる。

そして、自分が本当に何を美味しいと感じ、何に心を動かされるのかという自分自身の感覚を見失い、ただ「世間が素晴らしいともてはやしているから」「みんなが欲しがっているから」という理由だけで、自分の身の丈に合わないものを無理に求めようとしてしまう。その結果、自分の足元に咲いている名もなき花の美しさに気づくことなく、永遠に満たされない渇きを抱えることになるのだ。

shimoは、横断歩道で信号待ちをしながら、周囲に立つ人々を見回した。

ヘルメットを被り、汗だくになりながら交通誘導の赤い棒を振る警備員の男性。自転車の前後にお子さんを乗せ、必死にペダルを漕いでいく母親。イヤホンをしながら分厚い参考書を読んでいる学生。

彼らの一人一人が、それぞれに抱えきれないほどの悩みや喜びを持ち、自分自身の人生という物語のド真ん中を懸命に歩いている。この世界において、背景としてただ通り過ぎるだけの人間など一人として存在しない。

社会という巨大な歯車は、そうした名もなき人々の尊く、そして必死な営みの連鎖によってのみ回っているのだ。その事実に思いを馳せる時、shimoの胸には、この社会で共に生きるすべての見知らぬ人々に対する、静かで深い敬意と感謝の念が湧き上がってくるのだった。

ジョリーパスタという名の扉

どれくらい歩いただろうか。少し足に疲労を感じ始めた頃、大通り沿いに見慣れたイタリアンレストランの看板が見えてきた。

「ジョリーパスタ」

普段ならそのまま通り過ぎてしまうその店の前で、shimoの足はピタリと止まった。

店先に立てられた色鮮やかな幟(のぼり)と、ガラス窓に貼られた大きなポスター。そこに踊る文字が、彼の目を強く惹きつけたのだ。

『北イタリア縦断フェア “エミリア=ロマーニャ編”』

本日、10月6日(火)スタート。

「北イタリア……」

shimoは小さく呟いた。

その響きは、彼の心の奥底に封印されていた、古く埃を被った宝箱の鍵をカチャリと回した。

二十代の終わり頃、shimoはイタリアを北から南へ、バックパック一つで縦断する旅を密かに計画していた。アルプスの麓から始まり、ヴェネツィアの運河、ミラノの洗練、ボローニャの赤レンガ、そしてフィレンツェからローマ、ナポリへと抜ける壮大なルート。ガイドブックを何冊も買い込み、毎晩食い入るようにページをめくっては、見知らぬ異国の風に思いを馳せていた。

しかし、いざ出発を目前に控えた時、仕事で予期せぬ大きなトラブルが発生した。品質管理の要として、彼が現場を離れるわけにはいかなかった。さらにその後、実家の親の介護問題なども重なり、イタリアへの航空券は結局、一度も使われることなく引き出しの奥で色褪せていった。

彼はそのことを運命の不条理だとは一度も思わなかった。自分の置かれた環境を受け入れ、その中で最善を尽くすことこそが自分の生き方だと定めていたからだ。

だが今、目の前にあるジョリーパスタのポスターが、かつて行けなかったあの旅の記憶を鮮やかに呼び覚ましていた。

shimoは、誘われるように店のドアを押し開けた。

「いらっしゃいませ!」

明るく活気のある店員の声が響く。店内は、遅めのランチを楽しむ主婦のグループや、遅れてやってきた営業マンたちで賑わっていた。

shimoは案内された窓際の小さなテーブル席に腰を下ろし、目の前に置かれたフェアのメニューをゆっくりと開いた。

メニューに広がる美食の都

メニューを開くと、そこにはまるで旅行記の1ページのような、魅力的な言葉と写真が並んでいた。

「北イタリア縦断フェア」。

shimoはこの企画の背景にある、企業の途方もない情熱とこだわりに感嘆した。単なる「イタリアンフェア」と銘打って定番のピザやパスタを並べるのではなく、イタリアという国の多様な地域性に深く踏み込み、「北イタリア」の各州が持つ独自の食文化を、日本の各地にあるチェーン店のテーブルの上で忠実に再現しようというのだ。それは、食を通じて日常の中にささやかな旅情を届けたいという、ジョリーパスタの明確な意志を感じさせる個性的で意義深い企画だった。

今回の舞台である「エミリア=ロマーニャ州」。

北イタリアに位置するこの州は、州都ボローニャを中心に、パルミジャーノ・レッジャーノチーズ、伝統的なバルサミコ酢、そしてパルマハムなど、世界中の美食家を唸らせる数々の特産品を生み出してきた、まさに「美食の都」である。

そして何より、日本でも馴染み深い「ボロネーゼ」発祥の地なのだ。

メニューには、そのエミリア=ロマーニャ州の魅力を余すところなく詰め込んだ料理たちが、誇らしげに並んでいる。

まず目を引くのが、『フレッシュモッツァレラときのこのボロネーゼ』(1485円)。

牛肉100%の挽き肉を使用し、パスタによく絡む細挽きの肉と、肉本来の食感を楽しめる粗挽きの肉を絶妙にブレンドしているという。鍋肌に焼き付いた肉汁の旨味を白ワインなどで溶かし込む「デグラッセ」という本格的な調理技法を用い、フォンドボーや赤ワイン、トマトソースでじっくりと煮込んだ奥深いソース。そこに、秋の訪れを告げる舞茸やひらたけ、ミルキーなフレッシュモッツァレラ、そしてルッコラとイタリア産グラナパダーノチーズが彩りを添えている。

次に、『ラグー・アッラ・ボロネーゼ ビアンコ ~白いボロネーゼ~』(1309円)。

これは驚きのアプローチだった。ボロネーゼでありながら、あえてトマトを使わないというのだ。香味野菜と白ワインで仕上げた白いボロネーゼソースに、生クリームや卵黄を合わせ、なんとカルボナーラの要素を掛け合わせている。 じっくりとソテーして旨味を引き出した牛肉にハーブの香りを纏わせ、舞茸やひらたけ、そしてベーコンの塩味がアクセントになった、ジョリーパスタ流の新しいボロネーゼだ。

さらに視線を移すと、そこには意表を突く一皿があった。

『炙りウナギのアーリオ・オーリオ ~レモン風味~』(1419円)。

ガーリックとオイルのシンプルなパスタに、うなぎの白焼き、長ねぎ、スライスレモン、ミニトマトを合わせた一品。 上には香ばしく炙ったウナギが乗せられ、みょうがの爽やかな風味やカイワレの辛味がトッピングされている。 イタリアの伝統的なアーリオ・オーリオと、日本の伝統食材であるウナギを見事に融合させ、レモンでさっぱりとまとめ上げた独創的なメニューである。

他にも、層になったパスタとミートソースが織りなす熱々の『ラザニア』(539円)や、ワインのあてにぴったりの『熟成サラミのタリエーレ』(605円)が用意されている。

shimoはポケットからスマートフォンを取り出し、ブラウザを開いた。今日から始まったばかりのこのフェアについて、世間の人々がどのような反応を示しているのか気になったのだ。

検索窓にキーワードを打ち込むと、SNSやグルメサイトの反応が次々と画面に流れてきた。

「ボロネーゼ発祥の地をテーマにするなんて、今回のジョリパの北イタリア縦断フェア、本気度が違う!」

「トマトを使わない白いボロネーゼ、カルボナーラみたいな濃厚さなのに肉の旨味がガツンときて最高!」

「ウナギのアーリオ・オーリオ、最初えっ?って思ったけど、みょうがとレモンが効いててめちゃくちゃ美味しい。和とイタリアンの奇跡のコラボ」

画面越しに見る見知らぬ人々の言葉には、新しい味覚に出会えた喜びと、日常の中に持ち込まれた非日常への興奮が溢れていた。

この「北イタリア縦断フェア」は、単なる空腹を満たすためのものではない。毎日繰り返される平坦な日常の中で、少しだけ足を止めて遠い異国に思いを馳せたい人、自分の手の届く範囲で確かな豊かさを味わいたい人に向けて開かれた、パスポートのいらない旅の扉なのだ。

shimoは静かにメニューを閉じ、テーブルの上の呼び鈴を押した。

「お決まりでしょうか」

「ええ。この『ラグー・アッラ・ボロネーゼ ビアンコ ~白いボロネーゼ~』と『ラザニア』。それから……微発泡の赤ワインをグラスでいただけますか」

店員が笑顔で注文を復唱し、厨房へと戻っていく。

shimoは窓の外の秋空を見上げながら、静かに胸の高鳴りを感じていた。

湯気の向こうの景色と、それぞれの人生の輝き

しばらくして、shimoのテーブルに料理が運ばれてきた。

まずは微発泡の赤ワイン。グラスを持ち上げ、静かに口に含む。シュワリと心地よい微かな泡立ちとともに、葡萄の豊かな果実味が口の中に広がり、これから始まる食事への期待を優しく刺激する。エミリア=ロマーニャ州を代表するワイン、ランブルスコを彷彿とさせるその味わいに、shimoの頬が自然と緩んだ。

続いて、熱々の鉄皿に乗せられた『ラザニア』。焦げ目のついたチーズの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。フォークを入れると、幾重にも重なったパスタ生地の中から、濃厚なミートソースとクリーミーなベシャメルソースがとろりと溢れ出した。一口食べれば、その熱々で素朴な味わいが、冷え始めた秋の体を芯から温めてくれる。

そして、本命の『ラグー・アッラ・ボロネーゼ ビアンコ ~白いボロネーゼ~』。

純白の皿の中央に高く盛り付けられたパスタ。その上には、削りたてのグラナパダーノチーズが雪のように降り積もり、生クリームと卵黄を纏った黄金色のソースが艶やかに輝いている。

shimoはフォークにパスタを絡め、大きく口へと運んだ。

その瞬間、彼の脳裏に鮮烈な情景がフラッシュバックした。

噛み締めるたびに溢れ出す、じっくりとソテーされた牛肉の野性味あふれる深い旨味。それを包み込む、白ワインの気品ある酸味と香味野菜の甘み。 そして、生クリームと卵黄が織りなす圧倒的なコク。まるでカルボナーラのような滑らかさを持ちながら、その本質は間違いなく、肉を味わうための力強いボロネーゼだった。 舞茸とひらたけのコリコリとした歯ごたえが、秋の森の湿った土の香りを運んでくる。ふわりと鼻を抜けるハーブの香りが、見知らぬ風となって彼を包み込んだ。

――ボローニャ。

かつて写真集で擦り切れるほど見た、あの赤レンガの街並みが、湯気の向こう側にくっきりと浮かび上がった。

雨を避けるための「ポルティコ」と呼ばれる美しい回廊がどこまでも続く石畳の道。

広場の中央にそびえ立つ壮麗なサン・ペトローニオ聖堂。

そして、新鮮な野菜や肉、山積みのチーズが並ぶ市場(メルカート)の熱気と、陽気なイタリア語の喧騒。

shimoは今、間違いなくその街の路地裏にある小さなトラットリアのテラス席に座り、エミリア=ロマーニャの風に吹かれていた。

若かりし日、雑誌の特集記事を読んで「高級なリストランテで、何万円もするフルコースを食べることこそが真の豊かさだ」と信じ込まされていた時期があった。世間が作り上げた「上質」や「成功」のイメージに縛られ、それが手に入らない自分の人生をちっぽけに感じたこともあった。

しかし、どうだろう。

今、彼の目の前にあるのは、全国どこにでもあるチェーン店の一皿である。だが、そこには食材に対する作り手の深い敬意があり、本場の味を届けたいという熱烈な探求心があり、そして何より、それを心から美味しいと感じ、遠い異国の街並みをありありと想像できる彼自身の豊かな感性があった。

他人が決めた価値基準など関係ない。高価なものが無条件に優れているわけでもない。

自分の舌で味わい、自分の心で感動し、自分自身の内面にある想像力で世界を広げることができるなら、このジョリーパスタのテーブルは、紛れもなく世界で一番豊かな特等席なのだ。

自分に欠けているものを数え上げ、他人が持っているものを羨むのはもうやめよう。自分の人生という旅路において、自分を満足させることができるのは、自分自身が持つ感性のアンテナだけなのだから。

shimoは、最後のパスタの一本、ソースの一滴まで、愛おしむように綺麗に平らげた。

グラスに残っていた微発泡の赤ワインを飲み干すと、ふう、と深く、満ち足りた吐息が漏れた。

新たなる旅立ちと、希望の足音

会計を済ませるため、shimoはレジへと向かった。

「ありがとうございました」

笑顔でレシートを手渡す若い店員。その胸の名札を見ながら、shimoは心の中でそっと語りかけた。

(こちらこそ、ありがとう。君たちの見事な仕事のおかげで、私は今日、長年の夢だったイタリア縦断の旅に、ようやく出発することができたよ)

自動ドアが開くと、秋の午後の柔らかな日差しが、彼を優しく包み込んだ。

頬を撫でる風は、少しだけ冷たさを増していたが、今のshimoの心は、暖炉の火のようにポカポカと温かかった。

退職してからずっと心の中に巣食っていた、あの得体の知れない穴。それはもう、すっかり塞がっていた。いや、穴が塞がったのではない。その空いたスペースに、これから始まる新しい人生の旅の荷物を詰め込む準備ができたのだ。

人生のステージが変わり、環境が変わり、肉体が老いていく。それは誰にも平等に訪れる変化だ。しかし、その変化を受け入れ、今の自分にしか出せない味、今の自分にしか歩けないペースで歩みを進める限り、人生という名のロードムービーが終わることはない。

見上げれば、雲ひとつない真っ青な空が、はるか遠く、見知らぬ異国の空へと繋がっていた。

「さて、次はどの街へ行こうか」

shimoは、誰にともなく小さく呟いた。

その足取りは、いつか見たバックパッカーの若者のように軽く、そして、明日という新しいページに向かって、力強く確かなリズムを刻み始めた。
(完)

このショートストーリーは、以下のサイトを参考にさせて頂きました。
https://www.jolly-pasta.co.jp/info/menu/20260929.html
https://www.jolly-pasta.co.jp/info/press/JP_jollypasta_Italy_pasta_2610.pdf

 

令和8年10月5日 『牧場しぼり×シナモロールで繋ぐ日本の酪農未来』

 

『牧場しぼり×シナモロールで繋ぐ日本の酪農未来』(架空で空想のショートストーリー)※画像はAIによるイメージを含みます

凍てつく朝の匂いと、静かなる覚悟

2026年(令和8年)10月5日、午前4時。

目覚まし時計が鳴るよりも早く、shimoは暗闇の中で静かに目を開けた。窓の外はまだ深い漆黒に包まれており、秋の深まりを告げる冷たい風が、古い木造家屋の隙間をすり抜けてかすかな音を立てている。

布団から這い出ると、床の冷たさが足の裏から芯へと伝わってきた。長年の重労働で節くれだった指をゆっくりと曲げ伸ばし、軋む腰をかばいながら分厚い作業着に袖を通す。これが、国内の片隅で命と向き合う酪農家、shimoの変わらない朝の始まりだった。

土間におりて長靴を履き、外へ出ると、鼻をつくのは独特のアンモニア臭と、発酵した牧草の甘酸っぱい匂い。一般の人々からすれば顔をしかめるような匂いかもしれないが、shimoにとっては、自らの人生そのものを象徴する誇り高き香りだった。牛舎に足を踏み入れると、暗がりの中で数十頭の牛たちが一斉にこちらに顔を向ける。彼女たちの大きな瞳には、純粋な信頼だけが宿っていた。

「おはようさん。今日も冷えるな」

shimoは低くしゃがれた声でそう語りかけながら、一頭一頭の健康状態を確認していく。乳房の張り具合、鼻息の温度、糞の状態。長年の経験で培われた直感は、いかなる最新のセンサーよりも正確に牛たちの微細な変化を読み取る。彼には、都会のオフィスビルで画面を睨むような洗練されたスキルはないし、流暢な言葉で人を動かすようなカリスマ性もない。

生まれた時からこの牧場があり、泥にまみれ、牛の命と共に歩む生活しか知らなかった。世間を見渡せば、華やかな生活を謳歌する者もいれば、生まれながらにして莫大な資産を持つ者もいる。

しかし、shimoはそのような外側の世界を眺めて、己の境遇を嘆くようなことは決してなかった。自分にないものを数え上げる暇があるなら、今目の前にいる牛
の背中を撫で、自分が持っている技術と情熱のすべてをこの小さな命の営みに注ぎ込む。それこそが、彼が己の人生に見出した確かな価値だった。

搾乳機をセットし、リズミカルな音が牛舎に響き渡る。温かい生乳がパイプを通ってタンクへと送られていく様子を見つめながら、shimoの胸の奥には、拭いきれない重たい靄が立ち込めていた。

2026年現在、日本の酪農を取り巻く環境は、かつてないほどの厳しい冬の時代を迎えていた。国際情勢の不安定化や歴史的な物価高騰の煽りを受け、輸入に頼らざるを得ない飼料価格は天文学的な数字に跳ね上がっている。それに加えて、トラクターやボイラーを動かすための燃料費、電気代、あらゆる経営コストが容赦なくshimoたちの首を絞めていた。

「また一軒、隣町の牧場が畳んだらしい」

昨晩、農協の集まりで耳にした重苦しい声が蘇る。丹精込めて育てた牛を手放し、先祖代々守ってきた土地を離れる同業者の無念は、痛いほどよくわかった。

牛乳の小売価格は消費者への配慮から簡単には上げられず、生産現場のコスト増は、そのまま酪農家の身銭を切る形で吸収されているのが現実だ。それでもshimoは、社会のシステムを恨んだり、誰かを妬んだりすることはなかった。損得勘定だけで世界を測ろうとすれば、たちまち心は荒み、周囲のすべてが敵に見えてしまう。

彼はただ、目の前で静かに草を食む牛たちに、明日も美味しいご飯を食べさせたい。その純粋な願いだけを支えに、この凍てつくような現実の中で、ただひたすらに自分の役割を全うしようと必死に立っていた。

食卓の上の小さな革命家と、白いひとさじ

午前7時。2時間以上の朝の作業を終え、shimoが母屋に戻ると、台所からは味噌汁の良い香りが漂っていた。作業着を脱ぎ、丁寧に手洗いとうがいを済ませて居間に入ると、そこにはすでにパジャマ姿のまま目を輝かせている小さな人影があった。孫のSENAだ。

「じいちゃん、おはよう! 今日はね、すごい日なんだよ!」

ランドセルを背負うにはまだ少し早い、元気いっぱいのSENAは、朝の挨拶もそこそこに、冷凍庫の前から小走りで駆け寄ってきた。その手には、朝食の食卓には似つかわしくない、一つの丸いパッケージが握りしめられている。

「SENA、朝飯の前にアイスなんて食べたら、母さんに怒られるぞ」

苦笑いしながら諭すshimoに対し、SENAは得意げな顔で首を横に振った。

「違うよ、じいちゃん! これはただのアイスじゃないの。僕のお小遣いで買ってきた、じいちゃんたちへの『応援』なんだから!」

SENAがテーブルの上にドンと置いたのは、江崎グリコの「牧場しぼり」だった。見慣れたパッケージだが、SENAの言葉の意味がshimoにはすぐには理解できなかった。なぜ、市販のアイスクリームが自分たちへの応援になるというのか。首を傾げるshimoを前に、SENAは自分のキッズ用スマートフォンをポケットから取り出し、素早い指さばきでひとつの画面を表示させた。

「ほら、見て! 今日、10月5日からね、『シナモロールといっしょに!ミルク愛すキャンペーン』っていうのが始まったんだよ!」

画面に映し出されたのは、大きな耳で空を飛ぶ、雲のように真っ白でフワフワした愛らしい子犬のキャラクターだった。株式会社サンリオの人気キャラクター「シナモロール」である。

「しなも……ろーる? なんだか、うちの搾りたてのミルクみたいに真っ白な犬だな」

「そうだよ! シナモンはね、ミルクみたいに白くてフワフワで、すっごく可愛いんだ。でね、このキャンペーンがすごいのは、ここからなんだよ!」

SENAは興奮気味に画面をスクロールし、キャンペーンの詳細をshimoに見せた。そこには、ただアイスを買って景品を当てるという従来のキャンペーンとは全く異なる、画期的な仕組みが記されていた。

「この『牧場しぼり』を買って、レシートをLINEで送ると『シール』がもらえるの。そのシールを使って自分の好きなデジタルポイントをもらうコースに応募できるんだけど……じいちゃん、ここ読んで!」

SENAの小さな指が指し示した先には、shimoの目を疑うような一文が書かれていた。

『ご応募に1シールご使用いただくごとに当社から「一般社団法人 中央酪農会議」に10円の寄付を行います。国内の酪農・牛乳生産者のみなさまに役立てていただきます』

「寄付……?」

「そう! 僕が1シールコースに応募すると、僕にはPayPayとかdポイントが10ポイントもらえるんだけど、それと同時に、自動的にグリコさんが酪農家さんに10円寄付してくれるんだよ! 3シールコースなら僕に40ポイント、酪農家さんに30円! 6シールコースなら僕に100ポイント、酪農家さんに60円も寄付されるの! 僕がおいしいアイスを食べてポイントをもらうだけで、じいちゃんたちの牛さんのご飯代になるんだよ!」

SENAの声は、朝の光の中でキラキラと弾けていた。shimoは、その小さな画面に書かれた文字を、何度も何度も目でなぞった。企業が商品を売り込むためだけのキャンペーンではない。消費者がキャラクターの愛らしさに惹かれ、美味しいアイスを求めるその「日常のささやかな喜び」の裏側で、確実に生産者への支援が循環する仕組みがそこには構築されていた。

スマホの画面の向こう側に広がる、無数の体温

「それにね、じいちゃん。ネットのみんなも、すっごく盛り上がってるんだよ」

SENAはスマートフォンの画面をSNSのタイムラインに切り替えた。そこには、今日始まったばかりのキャンペーンに対する、数え切れないほどの反応が滝のように流れていた。

『シナモロール大好きだし、牧場しぼり美味しいし、おまけに酪農家さんの支援になるなんて最高すぎる! 今日帰りに絶対買お!』

『最近の物価高で酪農家さんが大変だってニュースで見てたから、こういう形で支援できるのは本当に嬉しい。グリコさんありがとう』

『デジタルポイントもらえる上に寄付もされるって、神企画すぎない? シナモンの限定壁紙も欲しいし、毎日牧場しぼり食べるわ』

『牧場しぼり、安いのにめちゃくちゃミルクの味濃くて美味しいんだよね。生乳へのこだわりが支援に繋がるの納得』

一つひとつのコメントを読み上げるSENAの声を聴きながら、shimoの胸の奥で、何かが熱くこみ上げてくるのを感じた。

「じいちゃん、牧場しぼりってね、2023年からすべての原料が国産か国内製造になってるんだって。しかも、しぼってから3日以内の新鮮な国産『生ミルク』にこだわってて、食品素材だけで作られてるんだよ。だから、じいちゃんたちが一生懸命しぼったミルクの味が、そのままみんなに届いてるんだね」

SENAが読み上げた公式のプレスリリースの内容は、まさにshimoたち酪農家が日々心血を注いでいる「鮮度と品質」への絶対的な信頼を意味していた。世の中には、派手な広告や高価なブランド名だけで価値を釣り上げている商品も数多く存在する。

高いお金を出せば良いものが手に入るという価値観に縛られ、無理をして背伸びをする人々もいる。しかし、この手の中にある「牧場しぼり」は、誰もがスーパーやコンビニで気軽に手に取れる価格でありながら、その中身には、shimoのような生産者の泥臭い努力と、素材本来の命の味が、一切のごまかしなく詰め込まれているのだ。

「シールを3枚ためるとね、シナモンのオリジナルデザインのスプーンとコースター、カップカバーがセットになった『ミルク愛すセット』の抽選にも自動で参加できるんだよ! あとね、毎月最初にシールをもらうと、シナモンの可愛いスマホ壁紙もダウンロードできるし、12月になったら『サンリオパーティランド』っていうゲームの中で使えるアイテムの引き換えコードももらえるんだって! すっごく盛りだくさんでしょ!」

SENAの説明は止まらない。この企画は、子どもから大人まで、そしてキャラクターのファンからアイスのファンまで、あらゆる人々の心に自然な形で寄り添うように緻密にデザインされていた。

「そうか……。SENAは、じいちゃんを応援するために、自分のお小遣いでこれを買ってきてくれたんだな」

「うん! じいちゃんが毎日早くから起きて、牛さんのために頑張ってるの、僕知ってるから。シナモンも可愛いけど、僕はじいちゃんの作るミルクが世界で一番大好きなんだ!」

SENAの裏表のない真っ直ぐな言葉に、shimoは目頭が熱くなるのを必死に堪えた。世間からどう見られようと、泥だらけの長靴を履いて生きる自分の姿を、この小さな孫はしっかりと見つめ、誇りに思ってくれている。それ以上の幸せが、この世界にあるだろうか。

shimoは、SENAが開けてくれた「牧場しぼり」の蓋をめくり、備え付けの小さなスプーンで真っ白なアイスをすくって口に運んだ。

滑らかな舌触りとともに、芳醇なミルクの甘みが口いっぱいに広がり、すっと爽やかに溶けていく。それは、彼が毎朝牛舎で嗅いでいる、あの温かくて優しい命の匂い、そのものだった。

「美味いな……。本当に、美味い」

ただの一杯のアイスクリーム。しかし、今日この日から、この一杯は、日本の酪農の未来を繋ぐ希望の架け橋となるのだ。

自己の輪郭と、他者への眼差し

昼下がり。秋晴れの高い空の下で、shimoはトラクターを走らせ、牛舎の清掃と新しいおかくずの敷き詰め作業を行っていた。額に浮かぶ汗をタオルで拭いながら、彼の思考は、朝SENAが見せてくれたスマートフォンの画面の向こう側にいる、無数の人々の姿へと向かっていた。

世の中には、数え切れないほどの人々が生きている。満員電車に揺られて会社へ向かうサラリーマン、家事や育児に追われる母親、将来の不安を抱えながら机に向かう学生。SNSの画面上では、彼らはひとくくりの「消費者」や「ネットの反応」として処理されてしまうかもしれない。

しかし、その一人ひとりには、確実に名前があり、それぞれの悩みや喜びを抱えながら、懸命に自分の人生を生きている。誰の人生も、決して他人の物語の背景を埋めるための添え物ではない。全員が、自分という命の真ん中で、必死に汗を流しているのだ。

そんな彼らが、仕事帰りのコンビニで、あるいは夕飯の買い物途中のスーパーで、ふと足を止め、シナモロールの描かれた「牧場しぼり」を手に取る。疲れた体と心を癒やすための、ほんの百数十円のささやかな贅沢。その小さな選択が、LINEというデジタルな糸を通じて、遠く離れたこの牛舎に立つshimoの長靴へと、確かな支援となって還元されていく。

「ありがてえな……」

shimoは、見えない彼らに向かって、深く頭を下げたい衝動に駆られた。

現代社会は、情報が溢れすぎている。誰もが、自分にとっての本当の幸せが何なのかを見失いがちだ。SNSを開けば、自分よりも恵まれた環境にいる(ように見える)人々の華やかな生活が目に飛び込んでくる。自分が持っていない才能や資産を数え上げ、他人が提示した「幸せの基準」を鵜呑みにして、際限のない渇望と葛藤に苦しんでいる人々は多い。

かつての酪農仲間の中にも、他の儲かるビジネスを羨み、「なぜ自分たちばかりがこんな泥臭くて割に合わない仕事をしているのか」と不満をこぼしながら去っていった者もいた。

しかし、shimoは違った。

彼は、自分に欠けているものを嘆くのではなく、自分が持っているもの、つまり「牛と対話し、極上の生乳を搾り出す技術」だけを見つめ、それをひたすらに磨き続けてきた。他人の芝生がどれほど青く見えようとも、自分の足元にある土を耕し続けること。それが、巡り巡って、今日のような全く予期せぬ形で、誰かの笑顔や優しさと結びつくのだ。

アイスを食べた消費者は、「美味しい」「シナモンが可愛い」「ポイントがもらえて嬉しい」と喜ぶ。江崎グリコは、こだわりの商品を届けることでブランドの誇りを守る。そして酪農家は、その売上の一部を寄付という形で受け取り、明日も牛に美味しい餌を与えることができる。

ここには、誰かを見下したり、誰かから奪い取ったりするような、冷たい損得の尺度は存在しない。あるのは、互いの存在を尊重し合い、社会という大きな繋がりの中で、それぞれが自分の役割を懸命に果たしていることへの、深い感謝の循環だけだった。

受け継がれる命のバトンと、未来への希望

夕暮れ時。西の空が燃えるような茜色に染まる頃、学校から帰ってきたSENAが、ランドセルを置くが早いか、牛舎へ飛んできた。

「じいちゃん! 手伝うよ!」

小さな手で懸命に箒を握り、通路に落ちた藁を掃き集めるSENAの背中を見つめながら、shimoは目を細めた。

「SENA。今日はお前のおかげで、じいちゃん、すっごく元気が出たよ。アイス、本当に美味しかった。ありがとうな」

「えへへ。僕の友達もね、みんな『シナモンの壁紙欲しいから牧場しぼり買う!』って言ってたよ。だから、じいちゃんたちの牛さん、これからもいーっぱいご飯食べられるね!」

SENAの言葉は、ただの子供の無邪気な慰めではない。今日、10月5日から12月25日までの約3ヶ月間続くこの「シナモロールといっしょに!ミルク愛すキャンペーン」は、確実に日本中の酪農家たちに、物理的な支援だけでなく、計り知れないほどの精神的な希望をもたらすだろう。

人間は、決して一人では生きていけない。そして、社会は私たちが思っているよりも、ずっと温かく、優しい繋がりで満ちている。そのことに気づくかどうかが、人生を豊かにするかどうかの分かれ道なのだ。

「SENA。じいちゃんはな、この牛たちが搾らせてくれるミルクが、日本中で頑張ってるみんなの力になって、それがまたこうして、シナモロールっていう可愛い犬と一緒にじいちゃんたちのところに帰ってくるのが、本当に嬉しいんだ」

「うん! 循環、だね! 学校で習ったよ!」

SENAが誇らしげに胸を張る。shimoは、その小さな頭を優しく撫でた。

生まれや育ち、環境には確かに違いがある。人生は、最初からすべてが平等に用意されているわけではない。しかし、だからこそ、人は自分に与えられた命のステージで、自分にしか咲かせられない花を咲かせようと必死に生きるのだ。

他人の物差しで自分の価値を測ることをやめ、自分の人生を、自分の足で力強く歩み続けること。その泥だらけの歩みこそが、誰かの心を動かし、世界を少しずつ良い方向へと変えていく原動力になる。

すっかり日が落ち、牛舎には暖かな電球の光が灯った。

牛たちの穏やかな咀嚼音が、夜の静寂の中に優しく響き渡る。

今日という一日。たった一つのアイスクリームのパッケージと、小さなスマートフォンの画面から始まった物語は、shimoの心に、これまで感じたことのないほどの確かな未来への光を灯していた。

明日もまた、朝4時に起きる。厳しい寒さと闘いながら、牛の乳を搾る。

その一杯の白いミルクが、工場のラインを通り、パッケージに詰められ、遠く離れた街の誰かの手へと渡る。そして、その誰かの「美味しい」という笑顔と、小さな指先から送られる一票のシールが、再びこの場所へと、温かい命のバトンとして返ってくるのだ。

「さあ、夜のご飯にしようか。明日も、いいミルクを頼むぞ」

shimoは愛おしそうに牛の首筋を叩き、SENAと手を繋いで、シチューの匂いが待つ母屋へと歩き出した。

見上げた夜空には、冷たくも透き通った星々が瞬いている。

日本の酪農の未来は、決して暗闇ではない。一杯の「牧場しぼり」と、シナモロールの笑顔、そして、見知らぬ誰かを思いやる人々の温かい選択が繋がっていく限り、この真っ白な希望のバトンは、必ず次の世代へと受け継がれていくはずだ。
(完)

このショートストーリーは、以下のサイトを参考にさせて頂きました。
https://cp.glico.com/bokujoshibori/campaign_7.html
https://www.glico.com/jp/newscenter/pressrelease/47905/
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000667.000001124.html

 

令和8年10月4日 『丸亀製麺の肉辛まぜうどんでニンニクパニック』

 

『丸亀製麺の肉辛まぜうどんでニンニクパニック』(架空で空想のショートストーリー)※画像はAIによるイメージを含みます

完璧な明日を迎えるための、無臭の誓い

2026年(令和8年)10月4日、日曜日。
秋の深まりを感じさせる涼やかな風が、少しだけ開けた窓の隙間からSENAの部屋に流れ込んできていた。高く澄み渡った空は、まるで彼の決意を祝福しているかのように青く晴れ渡っている。しかし、部屋の中央に座るSENAの心の中には、爽やかな秋晴れとは裏腹に、じっとりとした緊張感が渦巻いていた。

明日、10月5日。SENAは三年交際した彼女にプロポーズをする予定だった。

テーブルの上には、何度も確認した高級フレンチレストランの予約完了メールのプリントアウト、そして、決して安くはない月給の数ヶ月分をはたいて購入した、小さなベルベットの箱が置かれている。箱の中には、彼女の華奢な指に似合うであろう、小ぶりだが確かな輝きを放つダイヤモンドのリングが眠っている。

SENAは決して、生まれながらにして裕福な環境で育ったわけではない。むしろ、幼い頃から欲しいものを我慢することの方が多かった。周りの友人たちが最新のゲーム機やブランド物の服を手に入れているのを見ても、彼はただ黙って自分の古びたスニーカーの泥を落とすような少年だった。家計を支えるために両親が朝から晩まで働き詰めだったことを知っていたからだ。だからこそ、大人になった今、彼は「ここぞ」という場面では、世間一般が思い描くような「完璧で豪華な形」を求めてしまう傾向があった。

彼には、華やかな経歴も、人を惹きつけるようなカリスマ性もないかもしれない。しかし、地道にコツコツと積み上げる真面目さと、一度決めたことは最後までやり遂げる粘り強さがあった。それは彼自身の確かな持ち味であり、彼女もそんな彼の誠実さに惹かれて傍にいてくれているはずだった。

それでもSENAは、明日という特別な日だけは、自分の中にある泥臭さを一切消し去り、スマートで非の打ち所のない男を演じ切らなければならないと思い込んでいた。

「よし、今日一日、刺激物は一切口にしない。特にニンニク、ネギ、ニラは絶対のタブーだ」

SENAは固く拳を握り締め、自分自身に誓いを立てた。プロポーズの言葉を囁く時、口から微かでもニンニクの匂いが漂ってしまっては、せっかくの高級フレンチも、高価な指輪も、すべてが台無しになってしまう。雑誌やネットの「成功するプロポーズ特集」には、身だしなみや口臭ケアの重要性がこれでもかと書き連ねられていた。SENAはそうした情報を隅々まで読み込み、完全に鵜呑みにしていた。自分の言葉の熱量よりも、スマートな振る舞いや匂いの無さの方が重要だと、本気で信じ込んでいたのだ。

朝食は味気ないオートミールと白湯。昼食も、匂いの全くないプレーンのうどんを家で茹でて、ほんの少しの醤油だけでやり過ごした。満腹感は得られず、ただただ胃袋が空虚な音を鳴らしている。しかし、これもすべて明日のためだ。完璧な自分を演出するためには、この程度の苦行は乗り越えなければならない。

彼は深呼吸をして、気を紛らわせるためにスマートフォンを手に取った。

午後二時の誘惑と、タイムラインの魔物

午後2時過ぎ。SENAはソファーに寝転がりながら、何気なくX(旧Twitter)のアプリを開いた。タイムラインには、友人たちの休日の様子や、見知らぬ誰かの日常のつぶやきが次々と流れていく。

おしゃれなカフェの新作スイーツを楽しむ者、海辺へドライブに出かけている者、あるいは高級ホテルのラウンジで優雅なティータイムを過ごしている同級生。かつてのSENAなら、そうした煌びやかな投稿を見るたびに、胸の奥にチクリとした痛みを覚え、自分の平々凡々とした日常と比較しては落ち込んでいたかもしれない。しかし今の彼は、少し違った。

彼らには彼らが歩んできた道があり、自分には自分が歩んできた道がある。華やかな舞台に立つことがすべてではなく、自分には自分に合った歩幅があるのだと、ようやく受け入れられるようになっていた。

そんな穏やかな境地に至りつつあったSENAの目に、突如として強烈なビジュアルが飛び込んできた。

画面をスクロールする指がピタリと止まる。それは、丸亀製麺の公式アカウントが午後2時ちょうどに投稿したばかりのポストだった。

『完全新作!ガツンとニンニク!肉辛まぜうどん発売記念キャンペーン』

その文字の奥に添えられた画像は、匂いを一切断ち切っていたSENAの視覚を暴力的なまでに刺激した。 打ち立てでもっちりとした「釜抜き麺」の上に、これでもかとばかりに乗せられた凶悪な具材たち。カイエンペッパーやカレー粉のスパイスがバチバチに効いているであろう赤黒い特製ミンチ。

その横には、鮮やかな緑色を放つ生ニラが大量に盛られ、さらに反対側には、見るからに強烈なパンチを予感させる生ニンニクが鎮座している。それだけではない。香りを引き立てる刻みのり、爽やかな酸味をもたらすであろうガリトマト、そして、すべての暴力を優しく包み込み一体感を生み出すための玉子が、中央で黄金色の輝きを放っていた。

「な、なんだこれは……」

SENAは思わず息を呑んだ。さらに恐ろしいことに、画像の隅には「ひと口ごはんつき」「トマト酢つき」という文字が踊っている。うどんを平らげた後、残った濃厚なタレとミンチの中に、温かい白米を投入して最後の一滴まで喰らい尽くす。その背徳的な光景が、SENAの脳内にありありと再生された。

添えられたリンク先の情報を確認すると、この「肉辛まぜうどん」は10月6日(火)からの販売開始だという。並サイズで890円。大は1080円、得は1270円。 そして、このポストは、その発売を記念した「TVCM連動フォロー&リポストキャンペーン」を告げるものだった。10月4日(日)14:00から10月11日(日)13:59までの期間中、公式アカウントをフォローして対象ポストをリポストすると、その場で「肉辛まぜうどん」に使える500円引きクーポンが当たるというのだ。

松岡昌宏氏との共同開発による完全新作。ポストの中の松岡氏は、自信に満ちた笑顔でこう語りかけていた。

「辛くてうまくてクセになるやつ作っちゃった」

SENAの胃袋が、グウウウッと獣のような低いうなり声を上げた。オートミールとプレーンうどんで誤魔化されていた彼の本能が、一気に覚醒してしまったのだ。

画面の向こう側の熱狂と、交錯する想い

指が震えていた。SENAは魅入られたように、そのポストについたコメントや引用リポストを読み漁り始めた。ネットの海は、すでにこの「肉辛まぜうどん」の話題で阿鼻叫喚の渦と化していた。

「生ニンニクと生ニラのダブルパンチとか、これデート前日には死ぬやつだろwww」

「明日仕事だけど絶対に食べる。マスク二重にするから許して」

「丸亀製麺、本気出しすぎ。ひと口ごはん付きとか分かってるじゃん」

「トマト酢で味変できるの天才かよ。最後まで飽きずに食えそう」

「松岡くんの『作っちゃった』が強すぎる。絶対うまいやつ」

画面の向こう側で、顔も知らない数え切れないほどの人々が、一杯のうどんに対してこれほどの熱量を燃やしている。誰もが自分の日常の中で、この890円の幸せをどうやって味わおうかと、真剣に、そして楽しげに計画を立てているのだ。

SENAはふと、明日の自分が向かう予定の高級フレンチレストランのことを思い浮かべた。一人数万円のコース料理。もちろん、そこには一流のシェフの技術と、洗練されたサービスが存在する。素晴らしい空間であることに間違いはない。

しかし、この一杯890円の「肉辛まぜうどん」にも、それに負けないほどの情熱が注がれているのではないか。 食材一つ一つを徹底解剖し、辛さに負けない旨みの主役としての特製ミンチ、食欲をかき立てる増幅役の生ニンニク、香りで引き立てる名脇役の刻みのり、爽やかなアクセントのガリトマト、味わいを変えるトマト酢。それぞれが己の役割を全うし、一杯の丼の中で完璧な調和と爆発を生み出す。

それはまるで、人間社会の縮図のようだった。 誰もが華やかな主役になれるわけではない。裏方として支える者、アクセントとして個性を放つ者、全体をまとめる調整役。それぞれが自分の持ち場で必死に汗を流しているからこそ、世の中は美味しく、豊かに回っていくのだ。値段の高低や、見栄えの良し悪しだけで、その価値を決めることなど到底できない。

SENAは、自分が「完璧なプロポーズ」という見えない枠に囚われ、無理をして背伸びをしていたことに気づき始めていた。彼女に喜んでほしいという純粋な気持ちの裏に、「立派な男だと思われたい」「世間一般の基準をクリアしたい」という、他人の目を気にする臆病な自分が隠れていたのではないか。

運命のワンタップと、鳴り響く幻聴

「……いや、落ち着け。俺は明日、プロポーズをするんだ。ニンニクなんて論外だ」

SENAは首を激しく振り、スマホの画面から目を逸らそうとした。しかし、脳裏に焼き付いた生ニラと生ニンニクの鮮烈な色彩は、目を閉じても消えることはなかった。

「待てよ。発売日は10月6日だ。つまり、明日プロポーズが終わった後、明後日になれば食べられるんじゃないか?」

悪魔の囁きがSENAの耳元で響いた。

「そうだ。キャンペーンに応募するだけなら、匂いはしない。リポストするだけならセーフだ。それに、もし500円引きクーポンが当たれば、890円のうどんが390円になる。こんなお得な話を逃す手はない」

損得勘定が頭をもたげた。少しでも得をしたい、損をしたくない。そんな小さな執着が、彼の理性をいとも簡単に打ち崩していく。無意識のうちに、SENAの指は「リポスト」ボタンへと吸い寄せられていた。

ポチリ。

画面が切り替わり、彼のアカウントからキャンペーンの対象ポストが拡散された。 「ふぅ……これでいい。あくまで明後日の楽しみのためだ」

そう自分に言い聞かせた直後だった。 スマホが短く振動し、Xのチャット(旧DM)に着信があったことを知らせる通知がポップアップした。

『ご当選おめでとうございます!肉辛まぜうどんにご利用いただける500円引きクーポンをプレゼント!』

「……えっ?」

SENAは目を見開いた。まさかの一発当選。信じられない確率を引き当ててしまったのだ。クーポンの有効期限は取得日から9日間。期限までに入力しなければ無効になるという。

その瞬間、SENAの脳内に、先ほどの画像の中で微笑んでいた松岡昌宏氏の声が、明確な幻聴となって鳴り響いた。

『もう戻れないよ』 『辛くてうまくてクセになるやつ作っちゃった』

「あ、あああ……」

SENAは頭を抱えてソファーにうずくまった。 得をしたはずなのに、なぜか激しい敗北感に打ちのめされていた。クーポンを手に入れたことで、「明後日食べればいい」という理屈は消え失せ、「今すぐこのクーポンを使って、あの凶悪なニンニクとニラの海に溺れたい」という強烈な飢餓感が彼を支配してしまったのだ。

少しでも得をしようと浅ましい考えを起こした結果、彼は自分の心の中の最も深い欲望に火をつけてしまったのである。

鏡の前の自問自答と、本当の自分

部屋の中を、SENAは熊のようにウロウロと歩き回っていた。

「どうする? 明日のプロポーズはどうなる? ニンニクの匂いを漂わせて『僕と結婚してください』なんて、正気の沙汰じゃない。フラれるに決まってる」

彼は洗面所へ向かい、鏡に映る自分の顔を睨みつけた。 そこには、高級レストランでのディナーを前に緊張で青ざめている男ではなく、ただ一杯の「肉辛まぜうどん」を食べたくてたまらない、欲求不満に満ちた情けない男の顔があった。

「これが、俺の本当の姿なのか……?」

SENAは自問した。 彼女と過ごした三年間を思い返す。初めてのデートは、洒落たイタリアンでもフレンチでもなく、駅前の古びた定食屋だった。彼女は「ここのアジフライ定食、最高なんだよ!」と、ソースをたっぷりかけて大口を開けて笑っていた。SENAもつられて笑い、気取らないその空間がたまらしく居心地が良かった。

彼女は、彼が無理をして高級なものをプレゼントした時よりも、帰り道に見つけた小さな花を一輪渡した時の方が、心底嬉しそうな顔をしてくれた。彼女は決して、彼に「世間一般の完璧な男」など求めていなかったのだ。 自分が持っていないもの、華やかな経歴や洗練された立ち振る舞い。それを必死に取り繕おうとしていたのは、他の誰でもないSENA自身だった。

「俺は、何を見失っていたんだ」

鏡の中の自分に向かって、SENAはポツリとつぶやいた。 自分に欠けているものを嘆き、他人が持っているものを羨み、世間が押し付ける「幸せの形」に自分を無理やり当てはめようとしていた。そんなことをしても、決して満たされることはないのに。

自分が持っている資質。それは、不器用だけれど真っ直ぐに相手を思いやる気持ちであり、美味しいものを一緒に美味しいと笑い合える等身大の心だ。それこそが、自分のキャラクターであり、自分の人生の価値なのだ。

高級レストランのコース料理も素晴らしい。しかし、丸亀製麺の「肉辛まぜうどん」の、あの生ニラと生ニンニクと特製ミンチが渾然一体となったカオスな旨さも、同じくらい素晴らしいのだ。どちらが優れているかなどという尺度で測ること自体が間違っている。

「人からどう見られるかじゃない。俺が、彼女とどう生きていきたいかだ」

SENAの瞳に、確かな光が宿った。 彼はもう、明日のプロポーズに怯えてはいなかった。匂いを気にして縮こまるような男ではなく、自分の欲望にも、相手への愛にも、真っ直ぐに向き合う男になるのだと決めた。

肉辛まぜうどんと共に歩む未来へ

「よし……練習だ」

SENAは鏡の前に真っ直ぐ立ち、大きく息を吸い込んだ。 本来であれば、ここで「君の笑顔を一生守りたい」だの「僕の人生のパートナーになってください」だの、ネットで拾ってきたようなスマートなセリフを言うはずだった。

しかし、今の彼の中に湧き上がってくる言葉は、まったく別のものだった。脳内には依然として松岡氏の「作っちゃった」という満面の笑みと、特製ミンチに絡みつく釜抜き麺のビジュアルが躍っている。

SENAは、かつてないほどの大きな声で、鏡の中の自分に向かって叫んだ。

「俺と! 毎日、丸亀の肉辛まぜうどんをまぜてくれないか!!」

洗面所に声が反響した。 数秒の沈黙の後、SENAは思わず吹き出してしまった。

「なんだそれ。意味がわからねえよ」

腹を抱えて笑いながら、彼はこれまでの緊張が嘘のように解けていくのを感じた。 もちろん、明日実際にこのセリフを言うわけではない(言ったら彼女はきょとんとするだろう)。しかし、このトンデモないプロポーズの言葉には、彼の飾らない本質が詰まっていた。

泥臭くてもいい。時にニンニクの匂いを漂わせながら、一緒に笑い、一緒に汗をかき、ひと口ごはんを最後まで分け合えるような、そんな夫婦になりたい。

彼はスマートフォンを取り出し、Xの画面をもう一度見た。 タイムラインは相変わらず「肉辛まぜうどん」の話題で持ちきりだ。明日仕事があるからと嘆く者、それでも食べると決意する者。誰もがそれぞれの場所で、自分の人生を懸命に楽しもうとしている。

SENAは、当選した500円引きクーポンの画面を愛おしそうに見つめた。

「明日は、あの高級レストランで、ちゃんと自分の言葉で想いを伝える。不器用でも、俺らしく。そして……」

彼は窓の外の青空を見上げ、ニヤリと笑った。

「明後日の10月6日、火曜日。プロポーズが成功したら、一番に彼女を丸亀製麺に連れて行こう。そして二人で、この肉辛まぜうどんにガツンとニンニクを入れて、ズルズルとすすり上げるんだ。それが俺たちの、新しい人生のスタートだ」

部屋に吹き込む秋の風は、もう彼を不安にさせることはなかった。 テーブルの上のベルベットの箱は、明日の出番を静かに待っている。 そしてSENAの心の中には、ダイヤモンドの輝きにも負けない、確かな希望と、圧倒的な食欲が満ち溢れていた。
(完)

このショートストーリーは、以下のサイトを参考にさせて頂きました。
https://jp.marugame.com/menu/nikukaramaze/
https://jp.marugame.com/synced-assets/nikukaramaze-cp-pdf/campaign/cp_261004.pdf
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000329.000056642.html

令和8年10月3日 『やよい軒のかきフライ定食で大暴走!10月3日の朝』

 

『やよい軒のかきフライ定食で大暴走!10月3日の朝』(架空で空想のショートストーリー)※画像はAIによるイメージを含みます

第一章:偽りのファンファーレとSNSの罠

2026年(令和8年)10月3日、土曜日。
秋の深まりを感じさせる冷ややかな空気が、窓の隙間から部屋へと忍び込んでいた。時計の針は午前8時を少し回ったところだ。

ベッドの中で丸まっていたshimoは、スマートフォンの無機質な通知音によって眠りの底から引き上げられた。画面には、彼が命よりも大切にしていると言っても過言ではないSNSアプリ「X」からの通知が光っていた。

shimoは、自らを「インフルエンサー」と名乗る三十代の男性である。もっとも、フォロワー数は三千人程度を行ったり来たりしており、世間一般から見ればインフルエンサーと呼ぶには些か心許ない数字ではある。しかし彼にとっては、この三千人という数字が自分の存在価値を証明する唯一の盾であり、社会と繋がる命綱でもあった。

「ん……なんだ、朝から……」

目をこすりながら画面をタップすると、「@yayoiken_com」からのメンション通知だった。 寝ぼけ眼が、一瞬にして見開かれる。

「えっ……まさか!?」

昨日、10月2日の午前10時から、やよい軒の公式X、Instagram、Threadsにおいて『かきフライ定食発売記念キャンペーン』が開始されていた。日本国内で380店舗を展開する定食レストラン「やよい軒」が、秋の風物詩であるかきフライ定食の発売を記念して打ち出した大々的なSNSキャンペーンである。

InstagramとThreadsでは「バルミューダ BALMUDA The Pot」がそれぞれ1名に当たるというオシャレ路線の企画だったが、Xのキャンペーンは一味違った。指定の投稿のリンクをタップし、「#やよい軒」というハッシュタグをご自身のアカウントから投稿するだけで、なんと「やよい軒の金芽米 約10kg」が5名に当たるという、なんとも実用的で食欲をそそる内容だったのだ。

shimoは昨日の夜、何気なくこのキャンペーンに参加していた。そして今、彼の画面には公式アカウントからのリプライが表示されている。

『ご参加ありがとうございます! #やよい軒 のかきフライ定食はもうお召し上がりになりましたか?』

寝起きの混乱した頭と、常に「他人より優位に立ちたい」と渇望するshimoの脳内フィルターは、この定型文の自動返信を、とんでもない形で誤訳してしまった。

「……キタ!!! 当たった!! 金芽米10kg、当選だぁぁぁっ!!!」

彼はベッドから跳ね起き、狭いワンルームの部屋で歓喜の雄叫びを上げた。 わずか5名しか選ばれないという超難関の抽選を突破した(と思い込んだ)のだ。自分は選ばれし者である。運命の女神が微笑んだのだ。

「やっぱり俺は持ってる。日頃の行いが良いからな。他の連中がちまちまとポイ活をしている間に、俺は一撃で10kgの米を手に入れたんだ!」

彼の心の中には、歪んだ優越感が渦巻いていた。世の中を見渡せば、高級車を乗り回し、タワーマンションに住み、きらびやかな生活を見せつけるインフルエンサーたちが星の数ほどいる。shimoは彼らの投稿を見るたびに、胸の奥底でチリチリとした焦燥感と妬みを抱えていた。なぜ自分はあちら側ではないのか。なぜ自分はこんなにも報われないのか。

しかし今の彼は違う。五名という狭き門を潜り抜け、栄光の「金芽米10kg」を手にしたのだ。

「よし、この栄誉をフォロワーたちに見せつけてやらなければ。ただ『当たりました』と報告するだけでは三流だ。真のインフルエンサーなら、この勝利を優雅に、そしてユーモアを交えて演出するべきだ」

彼は瞬時に頭を回転させた。そうだ、やよい軒に行って、昨日発売されたばかりの『かきフライ定食』を食べて祝杯をあげよう。そこで最高の写真を撮り、当選の報告と共にアップするのだ。そうすれば、数千の「いいね」と羨望のコメントが滝のように押し寄せるに違いない。

第二章:勝利の凱旋道と街の息吹

身支度を整えたshimoは、秋晴れの空の下、意気揚々と街へ繰り出した。 頬を撫でる風は冷たいが、彼の心は熱く燃えたぎっていた。すれ違う人々が皆、何かしらの悩みを抱えて俯き加減に歩いているように見える中、自分だけが光り輝く特別な存在であるかのように錯覚していた。

駅前の大通りを歩きながら、彼は周囲の風景を観察した。 大きな荷物を抱えて足早に歩く宅配業者の青年。ベビーカーを押しながら、ぐずる子供を必死になだめている若い母親。徹夜明けなのか、目の下に濃いクマを作ってフラフラと歩くスーツ姿の中年男性。 誰もがそれぞれの生活の重荷を背負い、懸命に朝の時間をやり過ごしている。

普段のshimoなら、そんな彼らを横目に見ながら「人生って不公平だな」と毒づいていたかもしれない。なぜ同じ人間として生まれてきたのに、こうも環境や立場が違うのか。自分をもっと楽な環境に置いてくれれば、もっと輝けるのに、と。 しかし、今日の彼は「米10キロの覇者」である。心に余裕があった。

「フッ、みんな朝からご苦労なことだ。俺はこれから、優雅な朝食兼祝賀会というわけさ」

そんな優越感に浸りながら歩みを進めると、見慣れたオレンジ色と温かみのある木目調の外観が見えてきた。「やよい軒」である。

店の前には、大きなタペストリーが掲げられていた。 そこには、2026年7月にやよい軒の20周年を記念してブランドキャラクターに就任した、俳優の夏帆さんの姿がプリントされている。 夏帆さんが、揚げたてのかきフライを幸せそうに頬張っている。キャッチコピーは「気どらないおいしさと、ちゃんとしたごはん」。 10月2日より全国で放映開始されたばかりの新TVCM「~濃厚な海の恵み~かきフライ定食」篇と連動したビジュアルだ。

「気どらないおいしさ、か。いいじゃないか。俺みたいなインフルエンサーには、こういう庶民的でありながらも質の高いものを愛する『抜け感』が必要なんだよ」

shimoは誰に聞かせるでもなく独りごちて、自動ドアをくぐった。

第三章:メニュー画面の誘惑、黄金の選択

店内には、出汁の香りと揚げ物の香ばしい匂いが漂っていた。 時刻は午前9時前。店内には数人の客がパラパラと座っているだけだ。窓際の席で新聞を読みながらサバの塩焼定食を食べている初老の男性。作業着姿で、黙々とから揚げ定食をご飯にバウンドさせている若い職人。 静かだが、確かな生活の息吹がそこにあった。

shimoは入り口に設置された大型のタッチパネル式券売機の前に立った。 画面には、昨日発売されたばかりの『かきフライ定食』のラインナップが堂々と表示されている。

やよい軒のかきフライは、クリーミーで濃厚な牡蠣の旨みを存分に味わえるよう、揚げたてのアツアツ・サクサクに仕上げられているという。 メニューは非常に豊富だ。 ・かきフライ定食(4個) 1,120円(税込) ・かきフライ定食(6個) 1,420円(税込) ・かきフライミックス定食 1,050円(税込) ・かきフライ御膳 1,320円(税込) ・かきフライ(単品) 450円(税込)

テイクアウト(おうち定食)のメニューもしっかりと用意されており、かきフライ4個、6個、かきフライミックスがそれぞれ同価格で提供されている。

shimoは腕を組み、画面を睨みつけた。 「さて、どれにすべきか……」

彼は今日、祝杯をあげるためにここに来た。ならば、選ぶべきは最も豪華なものであるべきだ。 価格と内容を見るに、最高峰は『かきフライ定食(6個)』の1,420円か、あるいは『かきフライ御膳』の1,320円だろう。

『かきフライ御膳』の写真をタップして詳細を確認する。 なるほど、かきフライに加えて、すき焼き、蒸し鶏と海藻のぽん酢和え(店舗によってはオクラと海藻のぽん酢和え)、そしてサバの塩焼という、4種の小鉢が所狭しと並んでいる。まさに御膳と呼ぶにふさわしい、絢爛豪華な布陣だ。

「よし、かきフライ御膳に決まりだ。この圧倒的な品数こそが、勝利者の食卓にふさわしい」

彼は画面の『かきフライ御膳』をタップしようとした。 しかし、その指が空中でピタリと止まる。 視界の端に、もう一つの魅力的なメニューが映り込んだのだ。

『かきフライミックス定食 1,050円』

その写真には、サクサクのかきフライの隣に、巨大なエビフライと、ふっくらとしたアジフライが鎮座している。 エビフライ。アジフライ。 この魅惑的な響き。揚げ物界のスタープレイヤーたちが、一つの皿に集結しているのだ。

shimoの心の中で、凄まじい葛藤が始まった。 「小鉢が4種類もついた『かきフライ御膳』の高級感は捨てがたい。しかし、エビフライとアジフライが乗った『かきフライミックス定食』の破壊力も魅力的だ。……ええい、どっちを選べばいいんだ!」

しばらく画面の前でフリーズしていた彼だが、やがて口元に不敵な笑みを浮かべた。

「何を迷っているんだ、俺は。俺は今日、金芽米10kgを手に入れた選ばれし男だぞ。妥協など必要ない。両方頼めばいいじゃないか!」

彼は迷いを断ち切り、『かきフライ御膳』(1,320円)と、『かきフライミックス定食』(1,050円)の両方をカートに入れた。合計2,370円。朝食としては異例の金額だが、インフルエンサーの祝宴であり、何よりこの後「いいね」が大量に舞い込むことを考えれば安い投資だ。

決済を済ませ、食券を握りしめた彼は、意気揚々と奥のテーブル席へと向かった。

第四章:宴の幕開け、「気どらないおいしさ」の真似事

席に座り、冷たいお茶を一口飲む。 店内には静かなBGMが流れ、厨房からはパチパチと心地よい揚げ音と、肉を焼くジュージューという音が聞こえてくる。

数分後、店員の女性が大きなお盆を二つ抱えてやってきた。 「お待たせいたしました、かきフライ御膳と、かきフライミックス定食でございます」

テーブルの上に並べられた二つのお盆。それはまさに圧巻の光景だった。 右を見れば、かきフライ、すき焼き、小鉢が並ぶ『かきフライ御膳』。左を見れば、かきフライ、エビフライ、アジフライがそびえ立つ『かきフライミックス定食』。 テーブルの上が、さながら秋の味覚の大博覧会と化している。

「す、すごいボリュームだ……」

圧倒されつつも、shimoはすぐさまインフルエンサーとしての顔を取り戻した。 スマートフォンを取り出し、カメラアプリを起動する。 まずはテーブル全体の俯瞰写真を撮影。続いて、かきフライの黄金色の衣にクローズアップ。 エビフライはまっすぐに伸び、アジフライは尾をピンと立てている。 かきフライの脇には、レモンのくし切りと、たっぷりのタルタルソースが添えられていた。

「よし、完璧な構図だ」

写真を撮り終えた彼は、次にインカメラに切り替えた。 夏帆さんのCMの真似をして、かきフライを箸で持ち上げ、満面の笑みでフレームに収まる。

「気どらないおいしさと、ちゃんとしたごはん……ってね!」

パシャリ、とシャッター音が鳴る。 彼はすぐさまXのアプリを開き、写真と共に意気揚々と文章を打ち込んだ。

『やよい軒さん、金芽米10kg当選ありがとうございます!!✨ 祝杯として、かきフライ御膳とミックス定食のダブル食い! これぞインフルエンサーの朝食。夏帆さんも絶賛の気どらないおいしさ、皆も味わってみてね! #やよい軒 #かきフライ定食 #当選報告 #大勝利』

投稿ボタンをタップする。 シュッ、という音と共に、彼の勝利の宣言が電波に乗って世界へと発信された。 あとは、通知が鳴り止まなくなるのを待つだけだ。 彼は満足げにスマートフォンをテーブルの端に置き、いよいよ目の前の御馳走に向き合うことにした。

「まずは……やはり主役のかきフライからだな」

箸を伸ばそうとしたその時、スマートフォンの画面がパッと明るくなった。 リプライの通知だ。 「おっ、早いな。さすが俺のフォロワーたちだ」

彼はニヤリと笑い、画面を覗き込んだ。

第五章:崩れ去る砂上の楼閣、絶望の淵

画面に表示されたリプライを見た瞬間、shimoの顔から表情が抜け落ちた。

『shimoさん、それ当選DMじゃなくて、キャンペーン参加に対する自動返信のリプライですよww』

『文章よく読んでみ。「ご参加ありがとうございます」って書いてあるじゃん。当選者には後日別でDMが来るシステムらしいですよ』

『朝から一人で勘違いして2人前頼んでるの草生える』

『インフルエンサー(自称)の痛恨のミスwww』

「え……?」

思考が停止した。 彼は震える指で、今朝自分を歓喜の渦に巻き込んだやよい軒からの通知をもう一度開いた。

『ご参加ありがとうございます! #やよい軒 のかきフライ定食はもうお召し上がりになりましたか? 期間中毎日応募可能です! 当選された方には後日DMにてご連絡いたします。』

……書いてある。はっきりと。「後日DMにてご連絡いたします」と。 今朝の通知は、ハッシュタグをつけて投稿した全員に即座に送られる、単なるサンクスリプライだったのだ。

「う、嘘だろ……」

血の気が引いていくのが分かった。 自分がどれほど滑稽なことをしてしまったのか。当選したと勘違いし、有頂天になって、誰も頼まないような早朝から定食を二つも注文し、挙句の果てに「気どらないおいしさ!」などとドヤ顔で自撮りをアップしてしまった。

恥ずかしい。穴があったら入りたい。いや、むしろこのかきフライの衣に包まれて油の中へダイブしたい。 フォロワーたちからの冷笑的なリプライが、次々と追加されていく。彼らは「他人の失敗」という蜜に群がる蟻のように、容赦なく言葉の矢を放ってきた。

shimoはうなだれた。 「俺は……何をやっているんだ……」

他人に羨ましく思われたかった。チヤホヤされたかった。自分を少しでも大きく見せて、価値のある人間だと思わせたかった。 しかし、その見栄と虚栄心が、結果として自分を最も惨めな底辺へと突き落としてしまった。 自分が他人に見せつけてやろうとしていた優位性など、最初から存在しなかったのだ。

ふと、周囲の視線が気になった。 店内にいる客たちが、皆で自分のことを嘲笑っているのではないか。 「あいつ、一人で定食二つも頼んで、スマホ見ながら顔面蒼白になってるぞ」と囁き合っているのではないか。

彼は恐る恐る顔を上げ、店内を見回した。 しかし、誰も彼のことなど見ていなかった。 新聞を読んでいた男性は相変わらずサバの塩焼を美味しそうに食べているし、作業着の若者はご飯のおかわりに向かっている。 誰もが、目の前にある自分の食事に真剣に向き合っていた。他人の滑稽な一人芝居など、彼らの人生においては何の関心事でもなかったのだ。

その事実に、shimoは奇妙な安堵感と、同時に強烈な虚無感を覚えた。 自分は今まで、幻影を相手に戦っていたのだろうか。

第六章:揚げたての奇跡、サクサクの救済

「……冷める前に、食べよう」

shimoはスマートフォンを裏返しにしてテーブルの隅へ押しやり、割り箸を割った。 虚無感で胸はいっぱいだったが、目の前には冷めつつあるとはいえ、まだ微かに湯気を立てている大量の揚げ物がある。これを残すことは、生産者に対しても、料理を作ってくれた店員に対しても申し訳が立たない。

彼は力なく箸を伸ばし、『かきフライ御膳』の皿から、かきフライを一つ持ち上げた。 レモンもソースもつけず、そのまま口へと運ぶ。

サクッ。

「……!」

想像を遥かに超える軽やかな音が、脳内に響き渡った。 衣は薄く、しかし絶妙な硬さで揚げられており、歯を入れた瞬間に心地よい抵抗感と共に崩れていく。 そして、その直後に押し寄せてきたのは、強烈な海の旨みだった。

「なんだ、これ……めちゃくちゃ美味いじゃないか」

アツアツの衣の中から、クリーミーで濃厚な牡蠣の汁が溢れ出し、口の中を占拠する。臭みなど一切ない。ただ純粋な、海のミルクと呼ばれる牡蠣特有の芳醇な甘みと、磯の香りが鼻を抜けていく。

shimoの虚ろだった目に、光が戻り始めた。 次は、添えられているレモンをギュッと絞る。爽やかな酸味が衣に染み込んだところで、小皿に盛られた特製のタルタルソースをたっぷりと乗せる。

二口目。 「……うまっ!!」

思わず声が出そうになった。 レモンの酸味が牡蠣の濃厚さを引き締め、そこにタルタルソースのまろやかなコクと、ピクルスのシャキシャキとした食感が加わる。酸味と甘み、塩気と旨み。すべてのバランスが奇跡的な調和を保ちながら、口の中で爆発している。

たまらず、彼は茶碗を手に取り、金芽米の白ごはんをかきこんだ。 一粒一粒がしっかりと立っており、噛むほどに米本来の甘みが広がる。かきフライの濃厚な後味を、白いご飯が優雅に受け止め、完璧なマリアージュを完成させる。

「こんなに美味いものが、この世にあったのか……」

彼は夢中で箸を動かした。 すき焼きの小鉢に手を伸ばす。甘辛い割り下が染み込んだ牛肉と、くたっと煮込まれた白菜。これもまた、ご飯泥棒の異名にふさわしい逸品だ。 さらに、『かきフライミックス定食』の皿から、巨大なエビフライを掴み上げる。こちらは中濃ソースをたっぷりとかけてかぶりつく。 プリッとした弾力のあるエビの身が、歯を押し返してくる。衣の香ばしさとソースの酸味が絶妙だ。 アジフライは、醤油を垂らしていただく。身はふっくらとしており、青魚特有の旨みが口いっぱいに広がる。

かきフライ、すき焼き、エビフライ、アジフライ。 圧倒的な物量と、バリエーション豊かな味の連続攻撃。 shimoは、先ほどまでの絶望感や恥ずかしさを完全に忘却し、ただただ目の前の「食」という悦びに没頭していた。

第七章:満腹の先に見えた景色、それぞれの人生

気がつけば、あれほど大量にあったおかずの山が、半分以下に減っていた。 その間、shimoの頭の中は驚くほどクリアになっていた。

「俺は、何をそんなに焦っていたんだろう」

彼は咀嚼しながら、静かに自問自答した。 インフルエンサーになりたい。チヤホヤされたい。他人より良いものを食べ、良い暮らしをしていると思われたい。 その欲望の根底にあったのは、「自分は他人より劣っているのではないか」という恐怖心だった。

しかし、今、この瞬間。 1,320円の『かきフライ御膳』と、1,050円の『かきフライミックス定食』を頬張っている自分は、世界中の誰よりも幸せだと胸を張って言える。 高級な三ツ星レストランでキャビアを食べる富裕層よりも、SNSで何万もの「いいね」を獲得するトップインフルエンサーよりも、今、揚げたてのかきフライにタルタルソースをたっぷりつけてご飯をかきこんでいる自分の方が、絶対的に満たされている。

ふと、再び店内を見渡す。 サバの塩焼を食べていた初老の男性は、お茶をすすりながら満足げに息をついている。長年連れ添った妻を亡くし、一人の朝食にも慣れてきた頃かもしれない。 作業着の若者は、から揚げ定食をご飯三杯で平らげ、これから始まる過酷な肉体労働に向けてエネルギーを充填している。 奥のテーブルには、夜勤明けとおぼしき看護師の女性が、疲れた顔をしながらも、温かいみそ汁を飲んでホッと表情を緩ませている。

彼らは皆、誰かに見せびらかすためにここで食事をしているわけではない。 生きるために、今日という一日を乗り切るために、自分自身の心と体を満たすために、ここに来ているのだ。

それぞれの環境は違う。抱えている悩みも、背負っている責任も違う。 恵まれた環境で育った者もいれば、逆境の中で這い上がろうとしている者もいるだろう。 しかし、そんなことはどうでもいいことだ。 重要なのは、他人の皿を覗き込んで「あっちの方が肉が大きい」と妬むことではない。自分の目の前に出された皿と真剣に向き合い、その味を最大限に楽しむことなのだ。

「俺には、何万人のフォロワーを引き付けるようなルックスも、カリスマ性もないかもしれない。でも……」

shimoは、残った最後のかきフライを見つめた。

「でも俺には、このかきフライを誰よりも美味しく食べる味覚がある。そして、こうして朝からお腹いっぱい食べられるだけの、ささやかな自由がある。それで十分じゃないか」

他人の物差しで自分の幸せを測るのをやめた瞬間、心がスッと軽くなるのを感じた。 虚勢を張る必要はない。背伸びをする必要もない。 自分は自分だ。自分の好きなものを、自分のペースで楽しみ、自分の手で小さな幸せを積み重ねていけばいいのだ。

第八章:おかわりマシーンへのダッシュ、そして大勝利の朝

テーブルの上のおかずは、残りわずかとなった。 すき焼きの残りの肉とネギ、そして、大事に取っておいたかきフライが一つ。 しかし、肝心の白ごはんが、すでに茶碗から姿を消していた。

shimoは顔を上げ、店内の奥に鎮座する、銀色に輝く機械を見つめた。 やよい軒の象徴であり、無数の腹ぺこたちの胃袋を支え続けてきた神聖なる装置、「ごはんおかわりロボ」である。

彼はゆっくりと立ち上がった。 足取りは軽く、心には一片の迷いもなかった。 手には空になった茶碗をしっかりと握りしめている。

SNSでの勘違い。フォロワーからの嘲笑。 そんなものは、今の彼にとって、道端の小石ほどの意味も持たなかった。

「米が当たらなくても……いや、10kgの米なんて当たらなくてもいい」

彼は、おかわりロボに向かって、力強い足取りで歩みを進めた。 それは、偽りの自分に別れを告げ、本当の自分の足で歩き出した、確かな一歩だった。

「この揚げたてサクサクのかきフライ定食があって、そして……この『おかわりロボ』さえあれば、俺の人生は大勝利だ!」

おかわりロボの前に立ち、茶碗をセットする。 「中盛(150g)」のボタンを迷いなくプッシュする。 ウィーン、という機械音と共に、一口サイズにふんわりとまとめられた温かいご飯が、次々と茶碗の中へ落下してくる。そのリズミカルな動きを見ているだけで、得も言われぬ幸福感が込み上げてくる。

ご飯をよそい終えた彼は、その足で隣に設置されているポットに向かった。 やよい軒が誇る無料サービス、「豊かな香りのかつおダシ」である。 ホカホカのご飯の上に、テーブルに備え付けられている「刻みごま白菜漬け」をたっぷりと乗せ、その上から熱々のダシを並々と注ぐ。 自家製ダシ茶漬けの完成である。

席に戻ったshimoは、最後のかきフライをソースで平らげ、その濃厚な余韻が口に残っているうちに、ダシ茶漬けをサラサラとかきこんだ。 かつおの豊かな香りと、白菜漬けの塩気とゴマの風味が、胃の腑に優しく染み渡っていく。

「……あぁ、生きててよかった」

心からの言葉が、自然とこぼれ落ちた。

スマートフォンが、再びブルッと震えた。 また誰かからの嘲笑のリプライかもしれない。 しかしshimoは、もう画面を見ることはなかった。静かに電源を切り、ポケットの奥深くへとしまい込んだ。

窓の外では、秋の陽光が街を明るく照らし始めていた。 これから始まる一日が、どれほど平凡なものであっても構わない。 どんな困難が待ち受けていようとも、自分は自分の人生の真ん中を、しっかりと歩いていける。 そう確信できるほどの温かさと活力が、彼の全身に満ち溢れていた。

やよい軒の扉を開け、外に出る。 冷たい秋風が、火照った顔を心地よく冷ましてくれた。 深く息を吸い込み、青空を見上げる。

「さて、今日は何をして過ごそうか。まずは……部屋の掃除でもするか」

誰にアピールするわけでもなく、ただ自分のために。 shimoは、軽い足取りで、光あふれる街の雑踏へと溶け込んでいった。 10月3日の朝。それは、一人の男が小さくて確かな「本当の自分」を見つけた、大勝利の朝だった。
(完)

このショートストーリーは、以下のサイトを参考にさせて頂きました。
https://www.yayoiken.com/contents/news/260925_kaki.html
https://www.yayoiken.com/contents/news/261001_tvcm.html
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001672.000054093.html

令和8年10月2日 『10月2日の配当500円?つけめんTETSUの経済学』

 

『10月2日の配当500円?つけめんTETSUの経済学』(架空で空想のショートストーリー)※画像はAIによるイメージを含みます

1. 500円玉に群がる人々と、冷めた視線の男

2026年(令和8年)10月2日。
秋の乾いた風が、街路樹の葉をわずかに揺らして通り抜けていく。空は高く澄み渡り、陽射しはどこか優しげな温度を帯びていた。関東某所の駅前、喧騒と足早に行き交う人々の波の中に、その異様な光景は現出していた。

「つけめんTETSU」の店舗前に形成された、蛇のうねりのような長蛇の列である。

普段から人気のある店ではあるが、今日の行列は明らかに常軌を逸していた。店舗の入り口から歩道に沿って伸びた列は、角を曲がり、さらに隣のビルの前まで達しようとしている。最後尾に立つプラカードを持った店員の額には、うっすらと汗がにじんでいた。

shimoは、その長大な列の中腹あたりに立っていた。片手には使い込まれたレザーケースに収まったスマートフォンを持ち、その画面に冷ややかな視線を落としている。

画面に表示されているのは、『企業の価値を500倍にした伝説の創業者』と題されたネットの特集記事だった。ある一人の男が、たった一杯のラーメンからどのようにして熱狂的なファンを生み出し、一つのブランドを巨大なビジネス帝国へと成長させたのか。そこには、商品開発の苦労話から、巧妙なブランディング、そして企業売却に至るまでのドラマチックな軌跡が、いささか誇張気味の賛辞とともに綴られていた。

shimoは画面をスクロールさせながら、鼻で短く笑った。

(伝説、ね。確かに数字だけ見れば立派なものだが、要するに人間の本能と欲望をいかにコントロールするかという、行動心理学の実験に成功したという話だろう)

彼が並んでいるこの行列の理由。それは、今日が10月2日であることに起因している。

「10(テン)」と「2(ツー)」の語呂合わせ。それすなわち、「TETSU(テツ)の日」。

年に一度、つけめんTETSUが日頃の顧客への感謝を込めて開催する、一大イベントである。この日に限り、店の看板メニューである濃厚豚骨魚介の「つけめん」が、特別価格の500円、つまりワンコインで提供されるのだ。

通常価格であれば990円。それがほぼ半額になるというのだから、人が群がるのも無理はない。ネットの海は、数日前からこの話題で持ちきりだった。shimoはスマートフォンのタブを切り替え、SNSのタイムラインを開いた。

『今日TETSUの日じゃん!絶対行く!!』

『ワンコインでTETSUのつけめん食えるとか神イベントすぎる』

『公式インスタフォローしたら味玉まで無料とか、TETSUさん太っ腹すぎでしょww』

熱狂、狂騒、歓喜。画面の向こう側で、顔の見えない群衆たちが祭りの到来に酔いしれている。彼らの投稿からは、「いかに得をするか」「いかにこの波に乗り遅れないか」という焦燥感すら漂ってくる。

shimoは列を少しだけ前に詰めながら、ポケットの中の500円玉の感触を指先で確かめた。

「客への感謝のために、赤字覚悟で提供します」

企業がよく使う、お決まりの謳い文句である。善良な市民たちはその言葉を額面通りに受け取り、「なんて良心的な企業なんだ」と涙を流して喜ぶ。だが、shimoには分かっていた。この500円という価格設定が、決して単なる「大盤振る舞い」などではないことを。

2. フロントエンドの罠と、緻密に計算された包囲網

ビジネスの世界には、「フロントエンド商品」と「バックエンド商品」という概念がある。

フロントエンド商品とは、利益を度外視してでも新規顧客を獲得し、集客を行うための「撒き餌」である。そして、そこで獲得した顧客リストや信頼関係を元に、本当に利益を生み出す「バックエンド商品」を販売していく。

今日、この場で提供される500円のつけめんは、まさに絵に描いたような最強のフロントエンド商品だった。

(考えてもみろ)と、shimoは心の中で独白する。

(今日この列に並んでいる連中のうち、どれだけの人間が「今日だけ得をして二度と来ない」と断言できるだろうか。強烈な豚骨魚介の旨味と、極太麺の食感。一度その記憶を脳の中枢に刻み込まれた者は、遅かれ早かれ、強烈な禁断症状に襲われることになる)

そして、彼らが再び店を訪れた時、そこに待っているのは通常価格の990円のつけめんであり、さらにはより高単価な限定メニューという「バックエンド商品」の罠なのだ。

shimoは視線を上げ、店舗のガラス窓にデカデカと貼られたポスターを見つめた。

そこには、見る者の食欲を暴力的に煽るような、圧倒的なビジュアルのラーメンの写真が印刷されていた。

『10月限定!復刻 つけめん豚煮干し 1,200円(税込)』

ポスターの端には、小さな文字で詳細なスペックが記載されている。2026年10月1日(木)から10月31日(土)までの期間限定。関東エリアのつけめんTETSU全店舗(一部店舗を除く)での販売。

自慢の豚骨スープに、煮干しから抽出した芳醇なスープをブレンド。特製かえしと丁寧に仕込んだ味付き背脂を合わせることで、力強いパンチと深いコクを楽しめるガツンと濃厚な味わい。

さらには、ダメ押しのように赤い文字でこう書かれている。

『通常の2倍!シャキシャキもやしとキャベツたっぷり400gの「野菜増し」が追加料金なしで無料!!』

shimoは感嘆の溜息を漏らした。なんという完璧な布陣だろうか。

今日、10月2日に500円という破格の値段で人々の胃袋を掴む。ワンコインで最高の満足感を与え、「この店は安くて旨い、信頼できる」という強烈なアンカリング(初期の印象付け)を施す。

そして、客が店を出る際、あるいは列に並んでいるまさに今、この『つけめん豚煮干し』の暴力的なポスターを視界に滑り込ませるのだ。

「次はあれを食べてみたい」

客の脳内にその小さな種が植え付けられれば、企業の勝ちである。今日500円で支払われた「配当」は、明日以降、1,200円の売上となって確実に回収される。10月いっぱいという絶妙な期限設定が、「早く行かなければ」という焦燥感をさらに煽り立てる。一度獲得した顧客のLTV(顧客生涯価値)を最大化するための、息を呑むほどに美しいアップセル戦略。

「フッ、俺は騙されないぞ」

shimoは口の中で小さく呟き、冷笑を浮かべた。俺はこの企業の緻密なマーケティングを上空から俯瞰している。500円の恩恵だけを冷静に享受し、明日からの1,200円の罠には決して足を踏み入れない。俺は、この資本主義のゲームにおいて、踊らされる側ではなく、踊らせる仕組みを見破る側の人間なのだ。

3. 行列の中で交錯する、持たざる者と持てる者の景色

列はじりじりと、カタツムリの歩みのような遅さで前進していく。shimoはスマートフォンをポケットにしまい、周囲の人間観察へと意識を切り替えた。

前方には、いかにも裕福そうな出で立ちの若いカップルが並んでいた。男の腕には鈍い光を放つ高級な機械式時計が巻かれ、女が肩から下げているバッグは、ひと目でそれとわかる海外のハイブランドのものだった。彼らは今日が500円の日であることを知ってか知らずか、まるでアミューズメントパークのアトラクション待ちでもしているかのように、楽しげに談笑している。

一方、shimoのすぐ後ろには、ペンキの跡が点々とついた作業服を着た、初老の男性が一人で立っていた。その手は長年の労働を物語るように無骨で荒れており、履き古された安全靴のつま先はすり減っている。彼は誰と話すでもなく、ただ静かに、目を閉じて自分の順番が来るのを待っていた。

かつてのshimoであれば、前方のカップルを見て、心の奥底にどす黒い感情を渦巻かせていただろう。なぜ彼らばかりが恵まれているのか。なぜ自分は彼らのように、時間を気にせず、金に糸目をつけずに華やかな生活を送れないのか。世界はなんて不公平なのだろう、と。

しかし、今のshimoの心には、不思議なほど凪のような静けさが広がっていた。

世界は最初からグラデーションで塗られている。誰もが同じスタートラインに立っているわけではない。手札の多さも、ジョーカーの有無も、配られた時点で異なっている。それは厳然たる事実だ。

だが、他人の手札を覗き込んで歯噛みしたところで、自分の手札が強くなるわけではない。重要なのは、配られたカードのせいにしてゲームを降りるのではなく、その手札の中でいかに最善の一手を打ち、自分なりの勝利条件を見つけ出すかだ。

高級なフレンチレストランで一晩に数万円を消費することが至上の幸福だと感じる人間もいれば、仕事終わりにワンコインのつけめんをすすることに魂の救済を見出す人間もいる。どちらが偉いわけでも、どちらが劣っているわけでもない。

身の丈に合った場所で、自分の心が本当に震える瞬間を見逃さないこと。それが、この理不尽な世界を生き抜くための、たった一つの作法なのだ。

「それにしてもさー、今日来てマジ正解じゃね?」

後方から、やけに甲高い声が聞こえてきた。振り返ると、大学生らしき三人組の若者が、スマートフォンの計算機アプリを開きながらはしゃいでいた。

「通常990円が500円でしょ? つまり490円の得! これ三人分合わせたら1,470円も得してる計算になるぜ!」

「やば! その浮いた金で後でスタバ行けるじゃん!」

彼らの会話を聞きながら、shimoは軽く目を伏せた。

得をした、損をした。彼らの世界は、常にその二元論で回っているらしい。確かに数字上は490円のプラスだろう。しかし、彼らは「いかに得をしたか」という計算に夢中になるあまり、今から味わうはずの至高の一杯に対する純粋な期待感や、職人の技術への敬意をどこかに置き忘れてはいないだろうか。

何かを得るために、何かを失うことを極端に恐れる。少しでも自分だけが得をしたいと願い、他人が得をしているのを見ると途端に自分が損をしたような錯覚に陥り、妬みや嫉みに苛まれる。

損得勘定の天秤ばかりを見つめて生きる人生は、どこか息苦しい。shimoは、後ろの作業服の男性の静かな佇まいと、若者たちの喧騒を対比させながら、自分はただ、目の前に提示される一杯の丼の価値を、ありのままに測りきる人間でありたいと願った。

4. 情報という名のスパイスと、自分の舌という羅針盤

列はいよいよ店舗の入り口付近まで到達した。ガラス越しに、店内の活気ある様子が見て取れる。

shimoの前方にいたカップルや、大学生のグループも、いよいよ近づいてきた決戦の時に向けて、スマートフォンのカメラアプリを起動し始めていた。

特に、少し離れた場所に並んでいた若い女性の二人組は、店の看板を背景に自撮りを繰り返している。

「ハッシュタグは絶対『#TETSUの日』と『#ワンコイン』だよね!」

「あと『#ラーメン女子』も入れとこ! 絶対バズるって!」

彼女たちにとって、今日ここに来た最大の目的は、「500円のつけめんを食べる自分」というコンテンツを世界に向けて発信することなのだ。美味しいかどうかは、二の次なのかもしれない。多くの「いいね」を獲得し、他者からの承認という名の麻薬を浴びることが、彼女たちにとっての「幸福」の定義になっている。

(これもまた、現代の病理だな)と、shimoは思う。

情報があふれる世界で、人々は自分の足元にある幸せの青い鳥を見失っている。世間が「これが良いものだ」と囃し立てればそれに群がり、誰かが「これは時代遅れだ」と切り捨てれば、慌ててそれを手放す。

自分自身の内なる声に耳を傾けることを放棄し、他人の評価という不安定な羅針盤に自分の人生の舵取りを委ねてしまっているのだ。

だが、かつての自分もそうだったのではないか? shimoは胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。

自分にはない才能を持つ同僚を羨み、華やかなSNSの投稿を見ては自分の地味な日常を呪っていた時期があった。他人が持っている輝かしい資質ばかりに目が行き、自分自身が生まれ持っているもの、例えば、物事を深く洞察する思考力や、微細な味の違いを判別できる繊細な味覚といった、自分だけの武器の存在に気づこうともしなかった。

「お次でお待ちのお客様、一名様ですか? こちらへどうぞ!」

元気の良い店員の声に、shimoはハッと我に返った。

「はい」

短く答え、shimoは店内へと足を踏み入れた。周囲の視線など気にならない。誰かに見せるための食事ではない。ただ、自分の舌と魂を満たすためだけの、神聖な儀式が今、始まろうとしているのだ。

5. 舞台裏の役者たちと、一杯に込められた社会の縮図

案内されたのは、L字型のカウンターの中央付近の席だった。

店内は、熱気と活気に満ち溢れていた。豚骨と魚介が複雑に絡み合った濃厚な香りが充満し、胃袋の奥底を激しくノックしてくる。換気扇の唸る音、麺を湯切りする小気味良い音、そして店員たちの威勢の良い掛け声が、一種のオーケストラのように響き渡っている。

shimoは、氷の入った冷たい水を一口飲み、ガラス張りの厨房へと視線を向けた。

そこには、無駄を極限まで削ぎ落とした、プロフェッショナルたちの動きがあった。

巨大な寸胴鍋の前に立ち、長い木べらで力強くスープをかき混ぜ続ける男。彼の腕の筋肉は隆起し、額には大粒の汗が光っている。その隣では、タイマーの音に合わせて正確無比なタイミングで麺を茹で上げ、冷水で一気に締める職人がいる。さらに、出来上がった丼を絶妙なバランスで運び、客に対して最高の笑顔で提供するフロアスタッフ。

この狭い空間の中で、彼らは見事な連携を見せている。誰一人として、欠けてはならない存在だ。

映画やドラマの世界では、主人公の背後を行き交う名前のない人々を「背景」として処理することがある。しかし、現実の世界においてはどうだろうか。

この厨房で汗を流す彼らにも、それぞれに帰るべき家があり、愛する家族がいて、抱えきれないほどの悩みや、ささやかな希望を持っているはずだ。休日は趣味に没頭し、時には将来への不安に夜眠れなくなることもあるだろう。

彼らは決して、shimoという客の食事を彩るための「背景」などではない。誰もが、自らの人生という名の劇場のど真ん中に立ち、眩いスポットライトを浴びながら、今日も必死に自分の役割を全うしているのだ。

一杯のつけめんが自分の目の前に到達するまでに、どれほどの人間たちの情熱と、途方もない労力が費やされていることか。豚を育てた者、煮干しを獲った漁師、小麦を育てた農家、それを運ぶ物流の担い手。社会という巨大なシステムを構成する、無数の歯車たち。

shimoは、カウンターの木目を指でなぞりながら、自分を取り巻くすべての人々、すべての営みに対して、静かで深い敬意の念を抱いた。

俺たちにできることは、誰かを羨んだり、誰かを見下したりすることではない。ただ、自分が与えられた持ち場で、彼らのように必死に、泥臭く生き抜くことだけなのだ。

6. 濃厚豚骨魚介スープの襲来と、崩れゆく理性の防壁

「お待たせいたしました! つけめんです!」

力強い声とともに、shimoの目の前に二つの器が置かれた。

一つは、美しく折り畳まれたように盛られた、艶やかな極太麺。冷水でしっかりと締められ、照明の光を反射して琥珀色に輝いている。そこからは、上質な小麦が持つ、ふくよかで甘い香りが立ち昇っていた。

もう一つは、地獄の釜のように濃厚な茶褐色をしたスープ。表面にはキラキラと油の膜が張り、中央にはナルトと海苔、そしてネギが添えられている。器から立ち上る湯気は、豚骨の野性的な香りと、魚介のシャープな香りを複雑に絡み合わせながら、shimoの鼻腔を容赦なく蹂躙していく。

「いただきます」

shimoは小さく呟き、割り箸を割った。

まずは、麺だけを数本つまみ上げ、そのまま口に運ぶ。

――素晴らしい。

歯を押し返すような強靭な弾力。噛みしめるほどに口の中に広がる、小麦本来の甘みと風味。この麺だけでも、すでに一つの完成された料理として成立している。

次に、shimoは麺をたっぷりとつかみ、濃厚なスープの海へと沈めた。麺の表面に、ドロリとしたスープが纏わりついていく。そのまま一気にすする。

「ズズッ、ズズズッ!」

その瞬間、shimoの脳内で構築されていた「フロントエンド商品がどうの」「マーケティング戦略がどうの」という小賢しい理屈の防壁が、音を立てて崩れ去った。

圧倒的な、暴力的なまでの「旨さ」の奔流。

長時間かけて徹底的に炊き出された豚骨の、骨の髄まで溶け出したようなクリーミーなコク。そこに、厳選された煮干しや鰹節といった魚介の強烈な旨味が、鋭い刃のように切り込んでくる。相反するはずの動物系と魚介系の旨味が、器の中で奇跡的なバランスで融合し、未体験のシナジーを生み出している。

濃厚でありながら、決してくどくない。極太の麺が、その強すぎるスープのパンチをしっかりと受け止め、噛むという行為を通じて口の中で完璧なハーモニーを奏でている。

(うまい……いや、凄まじい……!)

高級ホテルのラウンジで出される数万円のコース料理。一貫数千円の高級寿司。世間には、高価であること=価値が高いこと、という強固な信仰がある。

しかし、今shimoの目の前にあるこの一杯はどうだ。通常価格990円、今日はたったの500円である。たった一枚の硬貨と引き換えに提供されたこの丼の中には、職人たちの狂気じみたこだわりと、膨大な試行錯誤の歴史という、金では買えない価値が濃縮されている。

価格の札で物の価値を測る愚かさ。世間の作った「高級」という幻想に踊らされることの滑稽さ。

shimoは無心で麺をすすり続けた。自分の味覚という資質が、この複雑な旨味の構成要素を一つ一つ分解し、そして再び統合していく過程に、えも言われぬ悦びを感じていた。自分には大金持ちになる才能はないかもしれない。しかし、この一杯のつけめんを、世界中の誰よりも深く理解し、味わい尽くすことができる感覚を持っている。それだけで、自分の人生は十分に豊かではないか。

7. エンターテインメントの極致、「焼き石」の儀式とドーパミンの海

至福の時間は、やがて一つの壁にぶつかる。

つけめんという食べ物が抱える、唯一にして最大の宿命。それは「スープの温度低下」である。

冷たい麺を熱いスープにつけて食べるという構造上、食べ進めるうちにどうしてもスープはぬるくなっていく。先ほどまでの熱狂的な旨味の輪郭が、温度の低下とともに徐々にぼやけ始めていた。

通常のつけめん店であれば、ここで客は妥協を強いられる。「まあ、つけめんだから仕方がない」と諦め、ぬるくなったスープで残りの麺を流し込むのだ。

しかし、ここは「つけめんTETSU」である。

shimoの唇の端が、わずかに吊り上がった。

(さあ、始まるぞ。この店の真の恐ろしさ、緻密に設計された行動心理学の最終兵器が)

shimoはカウンター越しに、フロアを歩く店員に向かって手を挙げた。

「すみません、焼き石をお願いします」

「はい! 焼き石一丁!」

店員の威勢の良い声が響き、数分後、小さなレンゲに乗せられた一つの石がshimoの目の前に運ばれてきた。

それは、直火で限界まで熱せられた、黒々とした特殊な石だった。石の表面からは目に見えない熱波が立ち上り、近づけるだけで顔の皮膚がジリジリと焼けるような感覚を覚える。

「大変お熱くなっておりますので、レンゲに乗せたまま、ゆっくりとスープの中にお入れください」

店員の言葉に従い、shimoは慎重にレンゲを持ち上げた。そして、ぬるくなり、静まり返ったスープの湖面へと、その灼熱の石をゆっくりと沈めていった。

――ジュワアアアアアアアッ!!!

石がスープに触れた瞬間、爆発的な音が店内の一角に響き渡った。

まるで休火山が突然噴火したかのように、スープが激しく煮立ち、ブクブクと巨大な泡を立て始める。器の底から一気に沸騰したスープが跳ね、周囲に白い蒸気が濛々と立ち込める。

それは単なる温度の回復ではない。強烈な熱によってスープの中の魚介成分が再び焦がされ、先ほどまでとは全く異なる、香ばしく野性的な香りが爆発的に拡散したのだ。

「おおっ……」

隣に座っていた客が、思わず感嘆の声を漏らしてこちらを見つめている。

視覚、聴覚、嗅覚。人間の五感をこれほどまでにダイレクトに、かつ暴力的に刺激するエンターテインメントが他にあるだろうか。

shimoは再び麺を浸し、口へと運んだ。

熱い。火傷しそうなほどの熱さと、焦がし魚介の鮮烈な香ばしさが、先ほどまでのまろやかな旨味とは全く違う角度から脳髄を直撃する。

(これは……狡い。あまりにも狡悪な仕掛けだ)

スープが冷めるというマイナス要素を逆手に取り、それを「味の変化」と「視覚的エンターテインメント」という強烈なプラス要素に変換してしまう逆転の発想。この激しい音と香り、そして熱さを体感した瞬間、客の脳内では間違いなく大量のドーパミンが分泌されている。

「美味しい」という味覚の記憶だけでなく、「楽しかった」「興奮した」という強烈な体験の記憶。それらが脳に深く刻み込まれることで、客は無意識のうちにこの体験を再び求めずにはいられなくなるのだ。

この「焼き石」の儀式こそが、TETSUという企業が仕掛けた、LTV最大化のための最も凶悪なトラップだったのだ。

わかっている。全ては計算し尽くされたマーケティングの掌の上だ。しかし、それでも抗えない。理屈でいくら防波堤を築こうとも、この圧倒的な快楽の前には無力だった。shimoはもはや、企業戦略を冷笑するシニカルな観察者ではなく、ただ快楽に身を委ねる一人の信者へと成り下がっていた。

8. スープ割りという名の鎮魂歌と、忠実な信者の誕生

麺の最後の一本までを啜り尽くし、器の中には少しのスープと、黒々とした焼き石だけが残った。

宴の終わりが近づいている。しかし、つけめんの儀式には、最後にして最も重要なプロセスが残されている。

shimoは卓上に置かれたステンレス製のポットに手を伸ばした。中に入っているのは、熱々のカツオだしである。

残った濃厚なスープに、透き通ったカツオだしをゆっくりと注ぎ入れていく。濃褐色のスープが徐々に薄まり、黄金色に近づいていく。

レンゲで一口すする。

先ほどまでの荒々しく暴力的な旨味が嘘のように、優しく、深く、じんわりと胃袋に染み渡る味わいへと変化していた。豚骨の重厚さは身を潜め、カツオの気品ある香りが前面に押し出されている。それはまるで、激しいオーケストラの演奏が終わった後に奏でられる、静かな鎮魂歌のような響きを持っていた。

「はぁ……」

shimoは深いため息をつきながら、器を両手で持ち上げ、最後の一滴までスープを飲み干した。

空になった丼を見つめる。

完食。そして、完全なる敗北であった。

「ごちそうさまでした」

これが今日はたったの500円。(今日は特別な日だから)。

店を出ると、秋の夜風が心地よく火照った頬を撫でていった。外にはまだ、途切れることのない行列が続いている。彼らもまた、これからあの強烈な体験を味わい、そして虜になっていくのだろう。

shimoは歩き出しながら、店舗の壁に貼られたあのポスターをもう一度振り返った。

『10月限定!復刻 つけめん豚煮干し 1,200円(税込)』

『通常の2倍!野菜増し(400g)無料!!』

豚骨と煮干し、そして特製背脂。さらに山盛りの野菜。想像しただけで、口の中に再び唾液が溢れ出してくるのを感じた。

(フロントエンド商品の罠。バックエンド商品への誘導。見え透いたアップセル戦略……)

shimoは夜空を見上げ、フッと笑った。

(上等じゃないか)

自分が企業の緻密なマーケティングに喜んで踊らされていることなど、百も承知だ。しかし、この圧倒的な価値の前では、そんな理屈はどうでもよかった。

他人がどう思うかではない。世間がどう評価するかでもない。自分がこの一杯に、1,200円以上の価値を見出した。ただそれだけの真実があれば、十分なのだ。

今日、俺は500円という最高の配当を受け取った。そして明日、俺はその配当を元手に、あの1,200円の限定メニューという新たな投資を行うだろう。

自分の足元にある幸せを見つめ、自分の価値観で人生を豊かにしていく。それは決して悪い気分ではなかった。

「明日は、野菜増しにしてみるか」

誰にともなく呟いたその声は、街の喧騒の中に優しく溶けていった。明日もまた、彼自身の物語は続いていく。誰の目も気にすることのない、彼自身が主役の物語が。
(完)

このショートストーリーは、以下のサイトを参考にさせて頂きました。
https://www.tetsu102.com/news/1270/
https://www.tetsu102.com/
https://www.instagram.com/p/Dd-Miijk5mE/