令和8年、雪の日の記憶。90年の時を超えて届いた「出せなかった手紙」(架空のショートストーリー)
第1章:令和8年の降雪と遺品整理
凍てつく洋館と、止まったままの時間
令和8年(2026年)2月26日。東京は、数十年ぶりとも言われる記録的な大雪に見舞われていた。
灰色の空からは、羽毛のような牡丹雪が音もなく舞い降り、赤坂の喧騒を分厚い白い毛布で覆い隠していく。近代的なガラス張りの高層ビル群すらも霞む中、ひっそりと取り残されたように建つ古い洋館があった。大正末期に建てられたというその館は、黒ずんだレンガの壁に雪を纏い、まるでこの場所だけが時間の流れから切り離されているかのような静謐さを湛えていた。
「また、雪か……」
shimoは、吐く息の白さに目を細めながら、重厚なマホガニーの机に積まれた埃まみれの書類の束に目を落とした。窓の外の寒々しい景色とは対照的に、部屋の中は古い紙とインク、そして微かに漂うカビの匂いで満たされている。
先月、102歳で大往生を遂げた曾祖父・誠一郎の遺品整理。それが、shimoがこの洋館を訪れた理由だった。曾祖父は生前、この書斎に家族が入ることをひどく嫌った。そのため、死後に残されたこの部屋は、まるで過去の地層がそのまま積み上がったかのような有様だった。
shimoは、革張りの椅子に深く腰掛け、息を吐いた。曾祖父は厳格な人で、口数も少なかったが、どこか深い哀愁を帯びた目をしていることが多かった。特に、雪が降る日はいつも、窓の外をじっと見つめ、何かを待っているかのように身動き一つしなかったことを覚えている。
机の引き出しを一つずつ開け、中のものを仕分けていく。古い万年筆、使い古された手帳、色褪せた写真。その中に、見慣れない古い木箱があった。黒檀で精巧に作られたその小箱は、他の雑多な遺品とは明らかに異質な、厳かな雰囲気を放っていた。
「なんだろう、これ……」
shimoは手袋をはめた手で慎重に蓋を開けた。中に入っていたのは、くすんだ真鍮の懐中時計と、和紙で作られた古い栞だった。
懐中時計の風防はひび割れ、針は**「午前5時」**を指したまま、永遠の眠りについている。ぜんまいを巻いてみたが、動く気配はない。不思議なことに、その時計に触れた瞬間、どこからともなくふわりと甘く切ない香りが漂ってきた。
「沈丁花……?」
それは、箱の中に納められていた和紙の栞から発せられているようだった。90年近い歳月が流れているはずなのに、その香りは記憶の奥底を揺さぶるように鮮烈だった。shimoは不思議な胸騒ぎを覚えながら、その懐中時計と栞を机の片隅に置いた。これが、後に90年前の真実へと繋がる重要な鍵であるとは、この時のshimoには知る由もなかった。
第2章:出せなかった手紙
隠し部屋ならぬ、隠し引き出しの発見
遺品整理は三日目に突入していた。書斎の整理も大詰めを迎え、shimoは部屋の隅にある大きなからくり箪笥と格闘していた。引き出しをすべて抜き取り、奥に溜まった埃を払おうとした時、指先が木の板の不自然な段差に触れた。
「ん……? なんだこの隙間は」
押し込むように力を入れると、カチリという小さな音とともに、底板の一部がスライドした。そこには、薄暗い隠し引き出しが存在していたのだ。
心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、shimoはその中から一つの封筒を取り出した。 封筒は経年劣化で黄ばみ、蝋封がされていたが、宛名はない。ただ、裏面には達筆な墨文字でこう記されていた。
『昭和十一年二月二十五日 夜 K・S』
昭和11年2月26日。それは、日本の歴史において決して忘れることのできない日、「二・二六事件」が発生した日だ。そして、手紙の日付はその前夜。曾祖父・誠一郎は当時、陸軍の憲兵であったと聞いている。
shimoは慎重にペーパーナイフで封を切った。中から現れたのは、便箋三枚にわたってびっしりと書かれた手紙だった。文字は力強く、しかしどこか急いで書かれたような乱れがある。
『誠一郎へ。 この手紙をお前が読んでいるということは、私は既にこの世にはいないか、あるいは国賊として裁かれていることだろう。 明日、我々は昭和維新の断行に踏み切る。腐敗した特権階級を打ち倒し、陛下の大御心の下、真に国民が救われる国を造るために。これは我々青年将校の、純粋にして狂おしいほどの憂国の情である。 しかし、我が友よ。決行を明日に控え、降りしきる雪を見つめながら、私の胸を占めているのは、国家の行く末だけではないのだ。 誠一郎、お前の妹である雪乃に、どうか伝えてほしい。私は彼女との約束を守れなかった。共に春の沈丁花を見るという、あのささやかな約束を。』
shimoの息が止まった。K・Sとは、曾祖父の親友であり、青年将校であった「清原(Kiyohara)少尉」のことだ。そして、雪乃とは、若くして結核でこの世を去ったと聞かされていた、shimoの大伯母にあたる人物。
手紙はさらに続いていた。
『私は、命を懸けてこの国を守る。未来の日本が、この雪のように白く清らかなものとなるよう、礎となる覚悟だ。だが、もし許されるのなら、雪乃と生きる未来が欲しかった。 誠一郎、私情を挟むことを許してくれ。我が愛の証を、「暁の光が五度差し込む場所」に隠した。それが私の、雪乃への出せなかった答えだ。 もしこの雪が止んだら、平和な日本でまた会おう。沈丁花が咲く頃に。』
第3章:過去とのリンク、90年前の真実
点と点が繋がる瞬間
手紙を読み終えたshimoの頬には、いつの間にか涙が伝っていた。 90年前のあの雪の夜。若き青年将校は、国の未来を憂う重圧と、愛する女性への断ち切れぬ想いの狭間で、どれほどの孤独と闘いながらこの手紙を書いたのだろうか。そして、憲兵という立場でありながら、親友の決起を止めることも、手紙を妹に渡すこともできず、ただ一人この重い秘密を抱え続けた曾祖父の苦悩はいかばかりだったか。
shimoは手紙の文面に目を凝らした。 「暁の光が五度差し込む場所……」
これは明らかに暗号だ。洋館の中で、暁の光(朝日)が五度差し込む場所とはどこか。五つの窓がある部屋? 朝日が当たる五番目の柱? その時、shimoの視線が、机の上に置かれたままの「懐中時計」に吸い寄せられた。
「……午前5時」
時計の針が示している時刻。それは二・二六事件の決起時刻であると同時に、暗号を解く鍵だったのではないか。5という数字。 shimoは立ち上がり、書斎を見渡した。この部屋で「5」に関わるもの……。
視線が壁に掛けられた巨大なアンティークの柱時計で止まった。その時計は、曾祖父がこの洋館を建てた時からずっとこの部屋にあると聞いている。文字盤はローマ数字で記されていた。「Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ……」
shimoは椅子を持っていき、柱時計の文字盤の「Ⅴ(5)」の装飾部分に手を伸ばした。木彫りの装飾は、わずかに動くようになっていた。息を呑みながらその装飾を横にスライドさせると、時計の裏側に小さな空洞があるのが見えた。
指を入れて探ると、小さなビロードの袋が出てきた。 袋の口を開けると、中から転がり出てきたのは、くすんだ銀色の指輪と、色褪せた沈丁花の押し花だった。
あの和紙の栞から漂っていた香りは、この押し花から移ったものだったのだ。90年の時を経てなお、色褪せることのない清原の想いが、そこには詰まっていた。
曾祖父・誠一郎は、親友の遺志を知りながら、なぜこれを妹の雪乃に渡さなかったのか。 いや、渡せなかったのだ。事件後、逆賊となった清原の品を妹に持たせることは、彼女の人生を壊すことになると考えたからだろう。曾祖父は、親友の魂と、妹の平穏を守るために、すべてをこの洋館の奥深くに封印し、たった一人で背負い続けたのだ。
雪の降る日、曾祖父が窓の外を見つめていたのは、あの日、雪の中で散っていった親友の姿を、そして永遠に春を迎えることのなかった彼らの未来を思っていたからに違いない。
第4章:雪の日の記憶を受け継いで
過去から未来へ
ふと気づくと、窓の外の雪はいつの間にか止んでいた。 分厚い雲の切れ間から、眩いばかりの朝日が差し込み、純白に覆われた東京の街をキラキラと照らし出している。
shimoは、指輪と手紙を胸に抱きながら、窓辺に立った。 90年前のあの日も、今日と同じように雪が降っていた。彼らは、今のこの平和な日本を想像できただろうか。
やり方は間違っていたかもしれない。歴史の波に翻弄され、悲劇的な結末を迎えたかもしれない。しかし、彼らが命を懸けて「より良い国にしたい」と願ったその純粋な熱情と、愛する人を想う心は、決して嘘ではなかった。
そして、その激動の時代を生き抜き、悲しみや秘密を胸に秘めながらも、命を繋いでくれた曾祖父たちのような人々がいる。彼らが懸命に生き、バトンを繋いでくれたからこそ、今の私たちが、こうして穏やかな朝陽を浴びて、自由に未来を語ることができるのだ。
歴史は繰り返すという。しかし、私たちは過去の悲劇から学び、より優しい世界を築いていくことができるはずだ。世代を超えて受け継がれた「雪の日の記憶」は、決して呪縛ではなく、今を生きる私たちへの祈りなのだ。
shimoの心の中に、不思議なほどの温かい感情が広がっていった。 それは、過去の激動の中で命を懸けて国を守ろうとした人々への畏敬の念であり、悲しみを乗り越えて命を繋いでくれた先人たちへの感謝であり、そして、今この現代社会で、それぞれの場所で懸命に生きているすべての人々へのエールでもあった。
春になれば、きっと庭に沈丁花が咲くだろう。その甘い香りは、もう悲しい記憶を呼び覚ますものではない。未来への希望の香りとして、この洋館を包み込むはずだ。
shimoは、朝日に輝く空を見上げ、晴れやかな笑顔で静かに呟いた。
「ありがとう」
その言葉は、90年の時を超えて、雪解けの風とともに、遥かなる過去へと確かに届いたような気がした。
