『歩行者天国の向こうがわ、あじさいの咲く校庭で』(架空で空想のショートストーリー)※画像はすべてAIによるイメージです
犠牲になられた方々、そのご遺族の皆様に、深く厳粛な哀悼の意を捧げます。
序章:六月八日の雨と、消えない記憶
令和8年(2026年)、6月8日。 朝から降り続く梅雨の雨が、校庭の隅に群生するあじさいの葉を静かに叩いていた。青、紫、そして淡い桃色。雨水を含んで重そうに首を垂れるその花々は、どんよりとした灰色の空の下で、そこだけが自ら発光しているかのように鮮やかな色彩を放っている。

小学校の教員を務めるSENAは、職員室の窓からその景色をじっと見つめていた。 今年で教員生活5年目を迎えるSENAは、5年生の担任を持っている。毎日の業務は多忙を極め、タブレット端末を活用した新しい授業形態の準備や、保護者との細かいコミュニケーション、そして山積する事務作業に追われる日々だ。しかし、毎年この「6月8日」という日付を迎えるたび、彼の心には日常の喧騒を切り裂くような、静かで重い緊張感が走る。
時計の針が午前9時を回った。 SENAの視線の先には、頑丈な鉄格子で覆われた校門が見える。監視カメラが四方を睨み、来訪者はインターホン越しに厳格な身元確認を受けなければ敷地に入ることすらできない。校舎内の至る所には、不審者を制圧するための「さすまた」が立てかけられ、教員たちは定期的に防犯訓練を義務付けられている。
今では当たり前となったこの「要塞のような学校」の風景。しかし、かつての日本の学校は、もっと地域に対して開かれ、誰もがふらりと立ち寄れるような無防備で温かい場所だった。 その前提が根底から覆されたのが、2001年(平成13年)6月8日である。 大阪教育大学附属池田小学校に刃物を持った男が侵入し、無抵抗な児童8名の尊い命が奪われ、15名が重軽傷を負うという、日本中を震撼させた児童殺傷事件。あの悲劇を境に、日本の教育現場から「絶対的な安全」という神話は崩れ去った。
そして、奇しくも同じ日付である2008年(平成20年)6月8日。 休日の歩行者天国で賑わう東京・秋葉原の交差点に、2トントラックが突入し、その後、男がダガーナイフで次々と通行人を襲撃した無差別殺傷事件。7名の命が理不尽に奪われ、10名が傷つけられた。
SENAにとって、2008年の秋葉原の事件は、決して教科書の中の歴史ではない。 当時、まだ小学生だったSENAは、家族と共に買い物に出かけた帰り道、偶然にもその惨劇の直後の現場のすぐ近くに居合わせたのだ。直接的な凶行の瞬間こそ見ていないものの、けたたましく鳴り響くパトカーや救急車のサイレン、逃げ惑う人々の悲鳴、アスファルトに散乱した荷物、そして、非日常の恐怖に染まった群衆のパニック。幼いSENAの脳裏に焼き付いたその光景は、深い記憶の傷となって今も彼の中に生々しく残っている。
「なぜ、あんなことが起きたのか……」 SENAは窓ガラスに額を押し当て、小さく呟いた。 被害者の方々には、その日の朝「行ってきます」と家を出て、夜には「ただいま」と帰るはずの、当たり前の日常があった。愛する家族がいて、将来の夢があり、笑い合う友人がいた。そのすべてが、たった一人の身勝手な絶望と暴力によって、一瞬にして奪われたのだ。被害者の方々、そして残されたご遺族の計り知れない悲しみと痛みを思うと、SENAの胸は今でも締め付けられるように苦しくなる。
「SENA先生、また靴下が左右で違いますよ。今日は水玉とボーダーの斬新な組み合わせですね」

不意に背後から声をかけられ、SENAはハッと我に返った。 振り返ると、同僚のベテラン教師が、SENAの足元を見てクスクスと笑っていた。
「あ、いや、これはその……朝、慌てて洗濯機のカゴから掴み出したものでして!決して新しいファッションを提唱しているわけでは……!」
SENAは顔を真っ赤にして言い訳をした。シリアスな物思いに耽っていた直後だけに、自分の間の抜けっぷりが情けない。教員としては情熱的で子ども思いなSENAだが、日常生活ではどこか抜けており、こうして同僚や児童たちからツッコミを受けるのが日常茶飯事だった。
「先生、しっかりしてくださいよ。今日は午後から、業者さんが花壇の整備に入りますから、子どもたちを近づけないように誘導をお願いしますね」 「はい、承知いたしました」
SENAはネクタイを締め直し、気を取り直して教室へと向かった。 どんなに過去の傷が痛んでも、目の前には守るべき子どもたちの笑顔がある。彼らの「今日」という当たり前の日常を守り抜くこと。それが、あの日の恐怖を知る自分が、教師という道を選んだ唯一の理由なのだから。
第一章:交差点のふたり
昼休み。雨は小康状態となり、灰色の雲の切れ間から薄日が差し始めていた。 校庭の水はけの良い部分では、すでに子どもたちが水たまりを避けながら元気にドッジボールに興じている。その甲高い歓声が響く中、校庭の隅のあじさい花壇の前で、黙々と作業をしている一人の男の姿があった。

彼が、市から派遣されて学校の植栽管理を請け負っている造園業者のshimoである。 年齢はSENAより一回りほど上だろうか。作業着に身を包み、首にタオルを巻き、日に焼けた浅黒い肌に無精髭を蓄えている。一見すると強面で、近寄りがたい雰囲気を漂わせているが、その手つきは驚くほど繊細だった。剪定ばさみを巧みに操り、不要な枝葉を落としながら、あじさいの美しいドーム型を丁寧に整えていく。
SENAは、見回りも兼ねてshimoの元へ歩み寄った。手には、自動販売機で買った冷たい缶コーヒーが二つ握られている。
「shimoさん、お疲れ様です。少し休憩しませんか?」
SENAが声をかけると、shimoは作業の手を止め、鋭い三白眼でこちらを振り向いた。一瞬ビクッとするSENAだったが、shimoはすぐに目元を和らげ、腰をトントンと叩きながら立ち上がった。
「おお、SENA先生。悪いね、気を使わせちまって」
shimoは分厚い手袋を外し、缶コーヒーを受け取ると、プシュッと小気味よい音を立てて蓋を開けた。一口あおり、「ふぅ」と深く息を吐き出す。
「いやぁ、最近どうも腰にきてね。中腰の作業はこたえるよ。先生みたいに若い頃は、いくら動いても平気だったんだがな」
「僕も最近、黒板の高いところに字を書くときに肩が痛むんですよ。四十肩には早すぎると思うんですけど……」
SENAが苦笑いしながら肩を回すと、shimoは鼻で笑った。
「先生は単なる運動不足だろ。昨日も体育の授業で、子どもたちのリレーに混ざって派手にすっ転んでたじゃないか。遠目から見ててヒヤヒヤしたぜ」
「えっ、見られてたんですか!? あれは靴の裏が滑っただけで……!」
「はいはい、そういうことにしておいてやるよ。先生はチョークを握るのが仕事なんだから、ハサミの使い方も俺に任せとけ。こないだ先生が草むしり手伝ってくれた時、雑草と一緒に綺麗な花の苗まで引っこ抜いてたからな」
からかうようなshimoの言葉に、SENAは頭を掻いた。 shimoは口調こそぶっきらぼうだが、決して嫌味な人間ではない。むしろ、言葉の端々に不器用な優しさが滲み出ている。子どもたちが間違えて花壇に入り込んでしまった時も、怒鳴るのではなく、「ここは花のおうちだから、踏まないでやってくれよ」と低い声で優しく諭していたのを、SENAは知っている。
しかし、時折shimoが見せる「目」の奥に、SENAは説明のつかない深い影を感じることがあった。 ふとした瞬間に、まるで社会のすべてを拒絶するかのような、冷たく、虚無的で、どこか悲しげな眼差し。それは、平和な日常を生きる人間が持つものではなく、一度深い絶望の淵を覗き込み、そこから這い上がってきた者だけが持つ、特有の色合いだった。
「綺麗な色ですね」 SENAは、shimoが手入れを終えたばかりのあじさいを見つめて言った。
「ああ。あじさいってのは、土の酸性度によって色が変わるんだ。酸性が強ければ青に、アルカリ性が強ければ赤に近づく。根を下ろした環境の成分を吸い上げて、自分の中に落とし込んで、この色を咲かせるのさ」
shimoは、手についた泥を払いながら静かに語った。
「人間と同じだな、って時々思うよ」
「人間と、同じ?」
「ああ。どんな環境で育つか、周囲から何を吸収するかで、人間の心の色も変わっちまう。綺麗な水を吸えば綺麗に咲くが、毒を吸い続ければ……心が腐って、自分でも制御できない真っ黒な色に染まっちまうこともある」
その言葉の響きに、SENAはハッとしてshimoの顔を見た。 shimoの視線は、無邪気に笑い合う子どもたちを通り越し、もっと遠くの、目には見えない何かを見据えているようだった。
第二章:見えない刃と、社会の影
令和8年の日本社会は、表面上は穏やかさを保ちながらも、その内側には深刻なひずみを抱えていた。 パンデミックを経て加速したデジタル化は、人々の生活を便利にした一方で、「孤独」という現代の病を蔓延させた。SNS上のエコーチェンバー現象は人々の極端な思考を増幅させ、リアルなコミュニティの崩壊は、助けを求める声をかき消した。物価の高騰と実質賃金の低下は貧富の差を決定的なものにし、一度レールから外れた者が這い上がることは極めて困難な「自己責任」の社会が完成しつつあった。 その結果、社会の片隅には、誰からも認識されない「見えない人々(透明な存在)」が生み出され、彼らをターゲットにした巧妙な詐欺や、SNSを通じた「闇バイト」といった犯罪が日常的にニュースを賑わせていた。
「今日が何の日か、先生は当然知ってるよな」
空になった缶コーヒーを弄りながら、shimoが唐突に切り出した。
「ええ……。忘れるはずがありません」 SENAは真顔で頷いた。
「2001年の池田小の事件。そして、2008年の秋葉原の事件。どちらも今日、6月8日です」 shimoは小さく息を吐き、あじさいの葉に溜まった雨水を見つめた。
「秋葉原の事件の犯人は、当時『自分には味方がいない』『社会から無視されている』という強烈な孤独と絶望を抱えていたという。ネットの掲示板だけが居場所で、そこでも孤立した結果、現実社会の『幸せそうな人間』すべてに対する無差別の殺意に変わった……」
shimoの声が、少しだけ震えているようにSENAには聞こえた。
「決して、犯人を擁護するつもりは1ミリもねえ。何の罪もない人たちの未来を理不尽に奪った罪は、どれだけ償っても償いきれない絶対的な悪だ。被害者の方々がどれほど無念だったか、残された家族が今もどれほどの地獄を生きているか……それは痛いほどわかる。だがな、先生」
shimoはゆっくりと振り返り、SENAの目を真っ直ぐに捉えた。
「俺には、あの犯人の中にあった『どうしようもない暗闇』の正体が、少しだけ……いや、痛いほどわかるんだ」
SENAは息を呑んだ。 shimoは自嘲気味に笑い、ぽつりぽつりと自身の過去を語り始めた。
「数年前の話だ。俺は、職も金も、人間関係も、すべてを失った時期があった」
shimoは当時、真面目に働いていた小さな町工場が倒産し、途方に暮れていた。再就職先も見つからず、貯金を切り崩す生活の中で、焦りから判断力を失っていた彼は、SNSで見つけた「必ず儲かる投資」という甘い言葉に騙され、巧妙な詐欺被害に遭ってしまった。 なけなしの全財産を奪われ、借金だけが残った。被害を警察に訴えても、海外のサーバーを経由した詐欺グループの足取りは掴めず、泣き寝入りするしかなかった。さらに、借金の返済に追われる中で、当時付き合っていた婚約者にも愛想を尽かされ、友人も次第に離れていった。
「完全に、社会から弾き出された気がしたよ。街を歩けば、すれ違う奴らがみんな俺を嘲笑っているように見えた。幸せそうに笑う家族連れ、手を繋ぐカップル、カフェで談笑する若者……そいつらの『当たり前の日常』が、俺には眩しすぎて、次第にそれが憎悪に変わっていったんだ」
shimoの言葉は、まるで古い傷口を開くように痛切だった。
「『なぜ俺だけがこんな目に遭わなきゃならないんだ』『俺からすべてを奪って、知らん顔で回っているこの社会を、ぶっ壊してやりたい』。そんな真っ黒な感情が、毎日毎日、胃袋の底で煮えたぎっていた」
そして、ある休日のこと。 shimoは、リュックの中に一本の包丁を忍ばせ、若者や家族連れでごった返す駅前の繁華街の交差点に立っていた。歩行者天国となり、車道まで人が溢れかえるその場所で、彼は信号が変わるのを待ちながら、リュックのチャックに手をかけていた。
「あと一歩だった。あと一歩、俺の理性が切れていれば、俺は確実に『あちら側(加害者)』になっていた。ニュースで報道される『誰でもよかった』と嘯く、血まみれの化け物にな」
SENAは言葉を失い、ただshimoの顔を見つめることしかできなかった。 今、目の前で優しく花を愛でているこの男が、かつて無差別殺人の一歩手前まで追い詰められていたという事実。それは、SENAにとってあまりにもショッキングであり、同時に、社会の底知れぬ恐ろしさを突きつけるものだった。
「……何が、shimoさんを引き止めたんですか?」 絞り出すように尋ねたSENAに、shimoは目を伏せた。
「……ガキだよ」
「えっ?」
「俺の目の前で、小さな女の子が転んだんだ。持っていたアイスクリームを落として、泣きべそをかいてた。周囲の大人はスマホを見ながら素通りしていく中で、俺は……気づいたら、反射的にその子を抱き起こしていた。ポケットにあった汚いハンカチで、泥のついた手を拭いてやったんだ」
shimoの顔に、微かな笑みが浮かんだ。
「そしたら、その子が泣き止んで、俺の顔を見て言ったんだ。『おじちゃん、ありがとう』って。……ただの、その一言だ」
その一言が、shimoの心を縛り付けていた真っ黒な憎悪の鎖を、粉々に打ち砕いた。
「俺みたいな、社会の底辺のゴミクズでも、誰かに『ありがとう』って言われることがあるんだって……そう思ったら、涙が止まらなくなってな。リュックを抱えたまま、その場で声を上げて泣き崩れたよ」
その後、shimoは自ら交番へ赴き、刃物を所持していたことを申告した。幸い誰かを傷つける前だったため、厳重注意と銃刀法違反での軽い処罰で済んだが、それを機に彼は生活保護を受けながらカウンセリングに通い、少しずつ社会との繋がりを取り戻していった。そして、更生を支援するNPO団体の紹介で、今の造園業の仕事に就いたのだという。
「先生。人間ってのは、本当に紙一重なんだ」
shimoは、自分の分厚い両手を見つめながら言った。
「俺はたまたま、あの女の子の言葉に救われて、踏みとどまれた。だが、もしあの日、誰一人俺を見ず、誰の声も届かなかったら……俺は確実に一線を越えていた。被害者と加害者の境界線なんて、実は驚くほど薄くて脆い。誰だって、ちょっとした歯車の狂いで、被害者にも、そして加害者にもなり得るんだよ」
第三章:被害者と加害者の境界線
shimoの告白は、SENAの胸の奥底に眠っていた記憶を激しく揺さぶった。 「……shimoさんの言う通りかもしれません」
SENAは、自らの震える両手を強く握り締めながら口を開いた。
「実は……2008年の6月8日、僕はあの秋葉原の交差点のすぐ近くにいました」 今度はshimoが驚いて、SENAの顔を見つめ返した。

「当時、僕はまだ小学生で、両親と一緒に買い物に来ていました。あの瞬間のことは、今でも夢に見ます。突然の爆音、空気を引き裂くような悲鳴、逃げ惑う人々の波に飲まれ、親の手を必死に握りしめて走った記憶……。振り返った時に見えた、アスファルトに広がる赤い血だまり」
SENAの声は微かに震えていたが、その眼差しは真剣そのものだった。
「僕は、あの事件で『見知らぬ他者』が心底恐ろしくなりました。すれ違う人が突然ナイフを取り出すんじゃないか。この平和な日常は、いつ誰によって壊されるかわからない。そんな恐怖をずっと抱えて生きてきました」
SENAは大きく深呼吸をした。
「だから、僕は教師になったんです。子どもたちを、あの理不尽な暴力から守りたかった。学校という空間だけは、絶対に安全な砦にしなければならないと。……でも、今日、shimoさんの話を聞いて、僕の考えは半分正解で、半分間違っていたことに気づかされました」
「間違っていた?」
「はい。物理的な鉄の扉を閉めて、防犯カメラを増やして、さすまたを構えても……それは『結果的に現れた脅威』を弾き返すだけの対処療法に過ぎないんです」
SENAは、校庭を囲む高いフェンスを見上げた。
「本当の脅威は、フェンスの外からやってくる『得体の知れない化け物』じゃない。shimoさんが言ったように、社会の孤独や絶望の中で、声なき悲鳴を上げている『普通の人間』が、限界を超えた時に一線を越えてしまう。それが加害者の正体なんだと」
二人は無言のまま、校庭で遊ぶ子どもたちの姿を見つめた。 池田小の事件も、秋葉原の事件も、犯人は最初から悪魔として生まれたわけではない。社会の中での挫折、孤立、他者への被害妄想、そうした負の感情が複雑に絡み合い、最終的に暴発してしまった結果だ。決して彼らの犯した罪を許すことはできない。しかし、なぜそのような人間が生まれてしまったのかという「背景」から目を背けては、第二、第三の悲劇は防げない。
「どんなに防犯ゲートを高くしても、社会の中に『見えない孤独』や『絶望』を放置し続ける限り、悲劇は必ず繰り返される……」
SENAは自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「僕たち一人ひとりが、いつでも被害者になる可能性があると同時に、環境や運命の掛け違いによっては、加害者に転落してしまう可能性も秘めている。だからこそ……」
「だからこそ、社会全体が繋がっていなきゃなんねえんだよな」 shimoが、SENAの言葉を引き継ぐように言った。
「誰かが倒れそうな時に、手を差し伸べる。声を聞く。お前は一人じゃないと伝える。俺があの日の女の子に救われたように、ほんの些細な人の温もりが、誰かの絶望の刃を溶かす最大の防御になる」
その時だった。 校門の方から、ただならぬ怒声が響き渡ったのは。
第四章:あじさいの咲く校庭で
「開けろ!! なんで鍵が閉まってんだよ!! 俺を無視するな!!」
けたたましい金属音が響いた。 SENAとshimoが振り返ると、校門の頑丈な鉄格子を、中年の男が狂ったようにガタガタと揺らしていた。男の服は汚れ、髪は乱れ、その目は血走り、口元には白い泡を飛ばしながら何事かを喚き散らしている。
「お前らだけ安全な場所に隠れて、笑ってんじゃねえぞ!! 俺の人生を返せ!! 開けろ!!」
校庭の空気が一瞬にして凍りついた。遊んでいた子どもたちの動きが止まり、恐怖で悲鳴が上がる。
「みんな、校舎の中に避難しなさい!! 早く!!」
SENAは咄嗟に大声で叫び、子どもたちを校舎へ向けて走らせた。同時に、職員室から数名の教師が「さすまた」を手に飛び出してくるのが見えた。 SENAも壁に立てかけられていた予備のさすまたを掴み、校門へと走った。
しかし、SENAの足は途中で泥に足を取られたように重くなった。 (怖い……) 男の狂気を孕んだ目を見た瞬間、SENAの脳裏に、2008年のあの日の光景がフラッシュバックしたのだ。血の匂い、パニック、圧倒的な暴力の気配。手が震え、さすまたを持つ指先から感覚が消えていく。
「SENA先生、下がってろ!」
横から太い腕が伸び、SENAをかばうように前に出たのは、shimoだった。 彼は武器を持っていなかった。手ぶらのまま、怒り狂う男が掴みかかっている鉄格子のすぐ目の前まで歩み寄った。
「危ない、shimoさん!! 離れて!!」
SENAの悲痛な叫びも虚しく、shimoは男と数十センチの距離で対峙した。 男はshimoを睨みつけ、ポケットの中に手を入れた。何か凶器を取り出そうとしているのかもしれない。SENAの心臓が早鐘のように鳴る。
だが、shimoは男に対して威嚇するでもなく、ただ静かに、そして深く響く声で言った。 「うるさいよな」
男の動きが、ピタリと止まった。
「世の中の笑い声が、車の音が、幸せそうな奴らの足音が……全部自分を馬鹿にしてるみたいで、うるさくて仕方ないよな」
shimoの目は、威圧するのではなく、ただ目の前の男の「底なしの暗闇」を真っ直ぐに覗き込んでいた。
「俺も同じだった。あんたと同じ、何もない空っぽの部屋で、自分の心臓の音だけが響くのが恐ろしくて、全部壊してやりたいって本気で思ってた」
男の表情に、僅かな戸惑いが生まれた。ポケットの中の手に力が入ったり抜けたりしているのがわかる。
「あんたが今、何を失って、どれだけ絶望してるかはわからねえ。だが、ここを越えたら……あんたは二度と戻れなくなる。自分の人生を、これ以上ゴミみたいに捨てるな」
shimoは、鉄格子越しにそっと手を伸ばし、男の震える汚れた手に、自分のゴツゴツとした手を重ねた。
「あんたの悲鳴は、俺が聞いてやる。だから、その手を離せ」
その言葉は、決して綺麗事ではなく、自らも地獄を見た者だけが放つ、血を吐くような共感だった。 男の目から、不意に大粒の涙が溢れ出した。
「あ……あぁ……っ、うぁあああっ……!」
男はポケットから手を抜き、鉄格子に崩れ落ちるようにして、子どものように声を上げて泣き始めた。ポケットから地面に落ちたのは、錆びたマイナスドライバーだった。

遠くから、通報を受けたパトカーのサイレンが近づいてくるのが聞こえた。 SENAは、その場でへたり込みそうになるのを必死に堪えながら、shimoの背中を見つめていた。 鉄の扉でも、さすまたでも防げなかった心の暴走を、shimoの「共感」という目に見えない力が食い止めたのだ。
終章:今日という日を、必死に生きる
その後、男は駆けつけた警察官によって保護され、連行されていった。怪我人は一人も出なかった。 子どもたちは無事に教室に戻り、学校には再び静寂が戻った。
雨雲は完全に去り、初夏の眩しい陽光が校庭に降り注いでいた。 雨水をたっぷり吸い込んだあじさいの花は、太陽の光を浴びて宝石のようにキラキラと輝いている。
「shimoさん……ありがとうございました。僕、何もできなくて……」
SENAは、花壇の前で作業を再開したshimoの背中に向かって、深く頭を下げた。自分のトラウマに足がすくみ、動けなかったことが情けなかった。
「何言ってんだ、先生はちゃんと子どもたちを逃がしたじゃないか。立派だったよ」
shimoは振り向かず、ハサミを動かしながら答えた。
「それに、あの男を止めたのは俺じゃない。あの男の中に、まだほんの少しだけ『人間としての理性』が残っていたからだ。俺はただ、それに声をかけただけさ」
shimoは手を止め、真っ直ぐに立ち上がって太陽を見上げた。
「俺は、かつて自分が救ってもらった命を、今度は誰かを守るために使いたい。この学校の木や花を育てるように……この国の未来である子どもたちが、安心して笑える場所を、俺なりのやり方で守っていく。それが、俺の新しい決意だ」
その横顔は、かつて絶望に染まっていたとは思えないほど、穏やかで力強かった。 SENAは、胸の奥底から温かい感情が込み上げてくるのを感じた。
(僕たちは、一人で生きているんじゃない) SENAは心の中で強く実感した。 自分は、家族や友人、そしてshimoのような見知らぬ人々の無数の「優しさ」と「繋がり」の網の目の中で、生かされているのだ。 被害者にも加害者にもなる可能性があるこの脆い社会で、私たちが真に安全を手にするためには、決して他者を切り捨てず、互いに敬意を払い、感謝の心を持つこと。孤立しようとする誰かの手を、社会全体で握りしめ続けること。 それが、過去の凄惨な事件で理不尽に命を奪われた方々への、最大の哀悼であり、生き残った私たちが果たすべき責任なのだ。
「shimoさん」 SENAは、晴れやかな笑顔で言った。
「僕も誓います。今日という日を、精一杯、必死に生きることを。子どもたちに、勉強だけじゃなく、人を愛すること、社会に感謝することの大切さを、全身全霊で伝えていきます」
「ああ、頼んだぜ、SENA先生。……あ、でもその前に、明日の体育では転ばないように、ちゃんと滑り止めのある靴を履いてこいよ」
「もう! だからあれは不可抗力だって言ってるじゃないですか!」
二人の笑い声が、初夏の青空に響き渡った。 悲劇の記憶は決して消えることはない。しかし、その痛みを抱えながらも、人は誰かと手を取り合い、希望を紡いでいくことができる。
校舎の窓から、「SENA先生ー! 早く教室戻ってきてー!」という子どもたちの元気な声が聞こえた。
「それじゃあ、行ってきます!」 SENAは大きく手を振り、あじさいの咲く校庭を、光の射す校舎へ向かって駆け出していった。
その背中を、shimoは優しく、力強く見守っていた。 歩行者天国の向こうがわから続くこの長い道のりの先が、どうか、いつまでも温かな光で満たされていることを祈りながら。
