『爆笑!ミスドの「#推しドをあらわす1行」に命をかけた男の悲劇』(架空で空想のショートストーリー)※画像はAIによるイメージを含みます
第一章:冷たい秋風と、持たざる者の焦燥
2026年(令和8年)10月7日、水曜日。午前9時。
秋の深まりを告げる冷たい風が、アパートの錆びついた鉄階段を吹き抜けていく。隙間風に揺れる薄っぺらいカーテンの隙間から、灰色の雲に覆われた空が覗いていた。四畳半の窮屈な部屋の中央で、shimoは万年床に寝転がったまま、ひび割れたスマートフォンの画面を凝視していた。
年齢は32歳。職業、お笑い芸人。正確には「売れないピン芸人」である。SNSのフォロワー数は奇跡的に二桁を維持しているが、その大半はかつての同級生や、義理でフォローしてくれているバイト先の関係者たちだ。ライブに出演しても、チケットを買ってくれるのは身内だけ。ウケるどころか、舞台に出た瞬間に客席から同情に似たため息が漏れることすらある。
画面の中では、お笑いコンビ「たくろう」が漫才を披露していた。絶妙な間合い、予想を裏切る独特のワードセンス、そして何より、彼らにしか醸し出せない唯一無二の空気感。shimoは彼らの動画を観るたびに、腹を抱えて笑うと同時に、胸の奥を鋭い刃物でえぐられるような痛みを覚えていた。
「なんで俺には、これがないんだろうな……」
独り言が、冷えた部屋の空気に溶けて消えた。
shimoは起き上がり、窓の外を見た。遠くには、太陽の光を反射して輝く真新しいタワーマンションがそびえ立っている。その足元では、ブランド物のスーツに身を包んだ人々が、足早に駅へと向かっているのだろう。

彼らは生まれた時から恵まれたレールの上を歩き、洗練された教育を受け、豊かな人脈を築いてきたのかもしれない。一方の自分は、地方のしがない家庭に生まれ、特に誇れる学歴もなく、ただ「人を笑わせたい」という漠然とした思いだけで上京し、気がつけば30代に突入していた。
世の中のスタートラインは、決して横一列ではない。誰がどう見ても明らかなその事実を前に、shimoは幾度となく打ちひしがれてきた。あのタワーマンションに住む人々と、この隙間風だらけのアパートに住む自分。
彼我の差を埋めるものなど、この世には存在しないように思えた。だが、だからといって誰かを恨んでも腹は膨れない。配られたカードで勝負するしかないのだと、頭ではわかっている。わかっているのに、心がいつも別の答えを探してしまう。自分にないものを探し求め、他人が持っている輝きにばかり目を奪われてしまうのだ。
「腹減ったな……」
財布を開くと、銀色の硬貨が数枚、所在なげに転がっているだけだった。総額480円。これが、今のshimoの全財産である。とりあえず、この硬貨を何らかのカロリーに変換しなければ、今日の命を繋ぐことはできない。彼は色あせたパーカーを羽織り、外へ出た。
街はすでに活気に満ちていた。すれ違う人々は皆、何かの目的を持って歩いている。スマートフォンで株価のチャートを険しい顔で睨みつける中年の男性。イヤホンからの音声に頷きながら、流暢な英語で通話するビジネスウーマン。カフェのテラス席で、少しでも得なポイント還元キャンペーンの情報を交換し合う若者たちのグループ。誰もが、自分の生活をいかに豊かにするか、いかに損をせずに生きるかに必死になっている。その姿を見ていると、shimoは自分が社会の歯車にすらなれていない、道端の石ころのような存在に思えてきた。
だが、不思議なことに、そんな彼らの背中を眺めていると、心の底からふつふつと湧き上がるものがあった。彼らもまた、それぞれの場所で、それぞれの重圧と戦いながら懸命に息をしているのだ。派手に見えるあの女性も、実は見えない借金を抱えているかもしれない。効率よく生きているように見えるあの青年も、夜になれば孤独に押しつぶされそうになっているかもしれない。そう思うと、少しだけ彼らに親近感が湧いた。
第二章:運命の交差点、黄金のリングが並ぶ場所
目的もなく歩き続けていたshimoの足が、ふと止まった。
甘く、香ばしく、そしてどこか懐かしい香りが鼻腔をくすぐったのだ。見上げると、おなじみの看板が目に飛び込んできた。ミスタードーナツである。

ガラス張りの向こう側、明るく照らされたショーケースの中には、色とりどりのドーナツが行儀よく並んでいる。高級ホテルのラウンジで提供されるような何千円もするスイーツではない。たった百数十円、二百円弱で買えるささやかな食べ物だ。しかし、そこには確実に、人々の心をホッとさせる温かな魔法がかけられている。値段の高さや希少性だけで物の価値が決まるわけではないという当たり前の事実を、そのショーケースは雄弁に物語っていた。
shimoの視線が、店先のガラスに貼られた一枚の大きなポスターに釘付けになった。
『お気に入りのドーナツにキャッチフレーズをつけよう!』
『#推しドをあらわす1行 キャンペーン』
『10月7日(水)10:00スタート!』

日付は今日。時間はちょうど午前10時を回ったところだった。
ポスターの隅々まで、shimoの目は獲物を狙う鷹のように走った。
キャンペーンの概要はこうだ。
ミスタードーナツのいつもの人気レギュラー商品全17種の中から、自分のお気に入りのドーナツ(推しド)を選び、その推しポイントを表現した「オリジナルキャッチフレーズ」をつけてSNSに投稿するというもの。
応募媒体は公式X(旧Twitter)と公式TikTokの二つ。Xの場合は、公式アカウント(@misterdonut_jp)をフォローした上で、対象のキャンペーンポストに指定のハッシュタグ「#推しドをあらわす1行」をつけてキャッチフレーズを記載してポストする。17種の中から選ぶ場合は、ドーナツの名前も記入する必要がある。TikTokの場合は、公式アカウントをフォローし、応募動画のコメント欄に書き込むか、同じくハッシュタグをつけて自作の動画を投稿する。
応募期間は本日から10月27日(火)の23時59分59秒まで。
そして、shimoの心臓を最も激しく跳ね上がらせたのは、次の文言だった。
『ご応募いただいた作品の中から選ばれたキャッチフレーズは、ミスタードーナツ公式SNSアカウントや広告、Webサイト、店頭等で活用・掲載させていただく予定です』

「これだ……!」
shimoの脳内で、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。
お笑い芸人として全く芽が出ない現状を打破する、一発逆転のビッグチャンス。この全国規模の大手チェーンのキャンペーンで、誰も思いつかないような、大喜利の回答のような爆笑必至のキャッチフレーズを生み出し、見事採用されればどうなるか。
「『あの秀逸なコピーを考えたのは誰だ!?』ってネットで話題になって、俺のXのアカウントが特定される。フォロワーが一気に何万人にも膨れ上がって、テレビの放送作家から声がかかる……!」
捕らぬ狸の皮算用もいいところだが、追い詰められた人間の想像力は時として無限の広がりを見せる。彼はすでに、深夜のバラエティ番組でひな壇に座り、有名MCから「あのミスドのキャッチコピー、君が考えたんだって?」と話を振られる自分の姿を明確に思い描いていた。
さらにポスターには、こんな情報も書かれていた。
『人気商品をリニューアル! ミスド、おいしさ追求宣言!』
9月30日より、人気レギュラー商品であるドーナツ、パイ、飲茶がおいしさアップのためにリニューアルされたというのだ。各生地の特長的な食感はそのままに、トッピングとの相性やくちどけ、香ばしさ、コクなどがさらに高められているらしい。
「リニューアル直後の今なら、誰も気づいていない新しい魅力に焦点を当てたボケができるはずだ!」
shimoは決意を固めた。ポケットの全財産480円を握りしめ、自動ドアをくぐる。
第三章:チョコファッションと格闘する大喜利タイム
店内は、平日の午前中にもかかわらず、様々な人たちで賑わっていた。
窓際の席では、制服姿の女子高生二人が、ストロベリーリングを片手にスマートフォンの画面を覗き込んで笑い転げている。彼女たちはきっと、学校での人間関係や、テストの点数、あるいは淡い恋の悩みを抱えながらも、このドーナツの甘さに救われているのだろう。
その奥の席には、くたびれたスーツを着た初老の男性が、目を閉じてコーヒーの香りを嗅ぎ、ゆっくりとポン・デ・リングを口に運んでいた。その背中からは、長年家族を養うために頭を下げ続け、理不尽な要求にも耐えてきた歴史が滲み出ている。
レジの近くでは、小さな男の子が「これがいい!」とエンゼルクリームを指差し、母親が「ちゃんと座って食べるんだよ」と優しく微笑みかけている。
誰一人として、同じ人生を歩んでいる者はいない。それぞれが抱える荷物の重さも、歩いている道の色も違う。しかし、この瞬間、この店内にいる彼らは皆、自分自身の人生という物語の真ん中を堂々と歩いているように見えた。誰もが誰かの代わりではない、唯一無二の存在として、今ここでドーナツの甘さに癒されている。
shimoはレジに進み、全財産から200円弱を投じて「チョコファッション」を一つと、安いドリンクを注文した。

お気に入りのドーナツを選ぶにあたり、ポン・デ・リングやオールドファッションといった王道も考えたが、ボケしろ(お笑い的な余白)を考えた結果、チョコファッションに行き着いたのだ。サクサクの生地に、一部分だけかかっているチョコレート。この「不完全なコーティング」という形状に、何か笑いの神が宿っている気がしたのだ。
トレイを受け取り、一番隅の席に座る。
目の前には、リニューアルされてさらに香ばしさが増したというチョコファッションが鎮座している。ミルク風味の生地と、艶やかなチョコレート。美しいコントラストだ。
shimoはスマートフォンを取り出し、Xの画面を開いた。ミスタードーナツ公式アカウント(@misterdonut_jp)をフォローし、ハッシュタグ「#推しドをあらわす1行」と「チョコファッション」という文字を入力する。
あとは、最強のキャッチフレーズを1行、打ち込むだけだ。
「さあ、笑いの神よ、俺に降りてこい……!」
shimoの大喜利タイムが幕を開けた。
たくろうの動画で見たような、独特の視点。誰もが「その発想はなかった!」と膝を打ち、そして腹を抱えて笑い転げるような1行。
第一案:
『半分だけチョコかかってるけど、作ってる途中でチョコ足りなくなったん?』
……ダメだ。ただのクレーマーみたいだ。面白くもなんともないし、ミスドの担当者がこれを見て採用するわけがない。
第二案:
『サクサクすぎて、食べた瞬間に口の水分全部持ってかれるけど、それがたまらんのよ』
……いや、食感の良さを伝えるどころか、ネガティブキャンペーンになっている。リニューアルでくちどけが良くなったと言っているのに、それに喧嘩を売ってどうする。
第三案:
『チョコファッション。それは、甘さと香ばしさのハーフ&ハーフ。まるで俺の人生のようだ』
……寒すぎる。ポエムか。お笑い芸人が一番やってはいけない「自分に酔っている感」が満載だ。
時間は無情にも過ぎていく。11時になり、12時になり、店内はランチタイムの客でさらに混雑し始めた。
shimoは頭を抱えた。考えれば考えるほど、浮かんでくるのは陳腐で、寒々しくて、誰かの真似事のような言葉ばかりだった。
「なんで俺は、こんなにもつまらない人間なんだ……」
自分の才能のなさに絶望しそうになる。ネットを開けば、同世代のクリエイターたちが気の利いた言葉でバズを生み出し、称賛を浴びている。彼らには生まれ持ったセンスがあり、言葉を紡ぐ環境があったのだろう。それに比べて自分はどうだ。四畳半の部屋で、他人のネタ動画を見て嫉妬するだけの日々。自分には何もない。持っているものなんて何一つない。
しかし、ふと顔を上げ、再び店内の人々に目を向けた。
女子高生たちも、サラリーマンも、親子連れも、みんなただ純粋に、目の前のドーナツを楽しんでいる。彼らは「誰かに褒められるため」にドーナツを食べているわけではない。誰かにどう見られるかではなく、ただ自分が「美味しい」と感じるから、ここにいるのだ。
「俺は、何をしようとしてるんだ……?」
shimoは自問した。自分は今、ドーナツの魅力に目を向けているのではなく、「面白いキャッチフレーズを考えた俺」を世間に見せつけようとしているだけではないか。本当に大切なのは、他人の評価や世間の物差しに自分を合わせることではない。自分がどう感じたか、どうありたいか、その真っ直ぐな思いに正直になることのはずだ。
無理に他人を羨む必要はない。自分にない才能を嘆く暇があるなら、今自分が持っている感情を、そのまま受け入れればいい。
第四章:暴走の果ての悲劇、そして奇跡の誤送信
時計の針は午後2時を回ろうとしていた。
目の前のチョコファッションは、すっかり冷え切ってしまっているが、それでもその堂々たる佇まいは失われていない。
shimoは、極度の緊張と疲労で震える手を伸ばし、チョコファッションを手に取った。
とりあえず、ボケるにしても何にしても、まずは味わわなければ始まらない。
大きく口を開け、かぶりつく。
「サクッ」
心地よい音が脳内に響き渡る。
9月30日にリニューアルされたという生地は、嘘偽りなく、圧倒的なミルク風味と香ばしさを保っていた。サクサクとした食感の後に、ふわっと広がる生地のコク。そこに、絶妙な甘さのチョコレートが絡み合う。くちどけも以前より格段に良くなっている気がする。
「……美味い」
その一言しか、頭に浮かばなかった。
奇をてらう必要など、どこにあったというのか。この完璧なバランスで作られたお菓子に対して、小賢しい大喜利など無粋の極みだ。
shimoの目から、なぜか一筋の涙がこぼれ落ちそうになった。人生が上手くいかず、金もなく、誰からも認められない日々の中で、この100円ちょっとのドーナツだけは、いつだって平等に、変わらない優しさで自分を包み込んでくれた。
「ただ、美味しい。それだけで十分じゃないか」
shimoは、ありのままの感動を文字にしようと決めた。
狙ったボケではなく、素の感想。自分の心から湧き出た、本物の言葉を。
彼はスマートフォンの画面に向かい、キーボードを叩き始めた。
打ちたかった文章はこうだ。
『サクサクの生地と甘いチョコが最高。変わらない美味しさに安心する。』
これに「#推しドをあらわす1行」「チョコファッション」を添えて、堂々とポストするのだ。採用されるかどうかはもうどうでもいい。ただ、このミスタードーナツという存在に対する感謝を表明したかった。
しかし。
数時間に及ぶ大喜利の苦悩による脳内疲労、朝から何も食べていなかったことによる極度の低血糖、そして、涙で滲んだ視界と、古くて反応の鈍いスマートフォンのタッチパネル。
それらすべての悪条件が奇跡的な確率で重なり合い、shimoの震える指先は、絶望的なフリック入力を連発してしまった。
彼が実際に打ち込み、そして確認もせずに「ポストする」ボタンを押してしまった文章は、次のようなものだった。
『サクさくの生地トあもいチョこが最の高。わかンない美味しさに案震する、、 #推しドをあらわす1行 チョコファッショソ』
画面に表示された「ポストを送信しました」の文字を見て、shimoはふと我に返り、自分のタイムラインを確認した。
そこには、先ほどの文章が、世界のインターネットの海に向けて高らかに放たれていた。
「……えっ?」
血の気が一気に引いた。
サクさく? ト? あもい? 最の高? わかンない美味しさ? 案震する?
日本語として崩壊している。誤字脱字のオンパレードだ。特に後半の「わかンない美味しさに案震(あんしん)する、、」に至っては、もはや恐怖すら感じる狂気の構文である。
「やっちまった……!」
慌てて削除ボタンを探そうとしたが、古いスマホが運悪くフリーズし、画面が動かなくなってしまった。
「動け! 動けよバカ!!」
画面を連打するが、黒い画面にリンゴのマークが虚しく表示されるだけ。再起動が始まってしまった。
shimoは頭を抱え、テーブルに突っ伏した。
お笑い芸人として爪痕を残すどころか、ただのヤバい奴としてデジタルタトゥーを刻んでしまった。あのミスドのキャンペーン事務局の人たちも、これを見たら「なんだこの意味不明なポストは」と眉をひそめるに違いない。
再起動が終わるのを待つ気力もなく、shimoは逃げるように店を飛び出し、冷たい風が吹く街をトボトボと歩いてアパートへと帰った。
第五章:拡散の嵐、そして見出した「自分の価値」
狭くて薄暗い四畳半の部屋に戻ったshimoは、布団に潜り込み、現実逃避のために深い眠りについた。
目が覚めたのは、すっかり日が暮れた午後7時過ぎだった。
部屋の中は暗く、遠くから聞こえる車の走行音だけが響いている。
「あーあ、俺の人生、ずっとこんな感じなんだろうな……」
充電器に繋ぎっぱなしだったスマートフォンを手に取る。
画面を点灯させた瞬間、shimoの心臓が飛び跳ねた。
通知のアイコンが、見たこともない数字を示していた。
「99+」
Xのアイコンの右上についた赤いバッジ。
恐る恐るアプリを開くと、通知欄が滝のように流れていた。
「〇〇さんがあなたのポストをリポストしました」
「〇〇さんがいいねしました」
「〇〇さんから返信があります」
あの日中のポストが、信じられない勢いで拡散されていたのだ。
インプレッション(表示回数)はすでに数十万を超え、いいねの数は万単位に届こうとしていた。
shimoは震える手で、リプライ(返信)や引用リポストのコメントを読み漁った。
『「あもいチョこが最の高」www わかりすぎる、チョコファッションのあの部分は最の高だよな!』
『「わかンない美味しさに案震する」ってパワーワードすぎないかww 美味しすぎて脳の処理が追いつかなくて震えてるのが伝わってくるw』
『ミスド愛が深すぎて知能が低下してるの最高に草』
『この絶妙な誤字脱字、計算してやってるなら天才だし、素なら奇跡だろ』
『なんか元気出た。私も明日チョコファッション買いに行って案震してくるわ』
画面に並ぶのは、嘲笑や罵倒ではなく、好意的な笑いと共感の声だった。
ネットの住人たちは、shimoの崩壊した文章の中に、計算されていない純粋な「ドーナツへの熱狂」を読み取り、それをシュールな面白さとして受け入れていたのだ。
狙ってひねり出した「大喜利的な上手いボケ」は、きっと誰の心にも引っかからなかっただろう。世の中には、言葉を巧みに操る人間など星の数ほどいる。
しかし、あの極限状態の中で、ただひたすらに「美味しい」という感動を伝えようとして空回りし、結果的に生み出された不器用な言葉の羅列。それこそが、人々の心の隙間に入り込み、笑顔を作ったのだ。
shimoの目から、今度こそ本当に涙が溢れてきた。
彼は悟った。
自分は、たくろうのように洗練されたワードセンスを持っているわけじゃない。気の利いた言い回しで世間を唸らせるような才能もない。
けれど、自分の中にある「好き」という感情の強さ、何かに感動する真っ直ぐな心、そして、それが不器用な形で漏れ出してしまうこの情けないキャラクターもまた、誰かを笑顔にできる価値を持っているのだ。
他人と自分を比べる必要なんてない。他人が持っている才能を羨み、自分が持っていないものを嘆くのは、もう終わりにしよう。
自分に欠けている部分を見るのではなく、自分が今持っている資質、自分の不器用さや情けなさも含めたこのキャラクターを、これからは大切に伸ばしていけばいい。
他人の評価や世間の物差しに幸せの基準を委ねるのではなく、自分が「最の高」だと思えるものを、胸を張って愛し抜けばいいのだ。
第六章:明日へ続くささやかな希望
一夜明けて、10月8日の朝。
shimoのポストの勢いは少し落ち着いたものの、フォロワー数は以前の100倍近くにまで増えていた。
ダイレクトメッセージには、いくつかのウェブメディアから「あのポストの真意について取材させてください」という依頼が届いていた。もちろん、テレビ番組からのオファーなどという夢のような話はないが、芸人としての小さな、しかし確実な第一歩を踏み出したような気がした。
相変わらず、アパートの部屋は狭くて寒い。
窓の外に見えるタワーマンションの住人たちと自分の間にある格差は、1ミリも縮まっていない。世界は不平等で、理不尽で、それぞれの環境には変えられない壁がある。
しかし、shimoの心の中にある景色は、昨日とは全く違っていた。
タワーマンションから出てくるスーツの男性も、コンビニで夜勤明けの疲れを癒している若者も、そして、この四畳半でスマートフォンを握りしめている自分も。
誰もが皆、自分の人生という舞台で、必死に汗を流しながら生きている。誰一人として、他人の人生の背景として生きているわけではない。それぞれが、それぞれの場所で、泥臭く、不格好に、しかし確かな熱量を持って自分の生を全うしているのだ。
「さてと、今日も行きますか」
shimoは色あせたパーカーを羽織り、部屋を出た。
財布の中には、昨日偶然見つけた千円札が一枚入っている。
彼が向かう先は、もちろんミスタードーナツだ。
今日はもう、奇をてらったボケを考えるつもりはない。
リニューアルされて、さらに美味しくなったドーナツたち。ポン・デ・リングも、オールドファッションも、エンゼルクリームも、すべてが彼を待っている。
「今日は、ポン・デ・黒糖にしてみようかな。あのあっさりした甘さに、また『案震』させてもらおう」
冷たい秋風が吹き抜ける街の交差点を、shimoは軽やかな足取りで歩いていく。
すれ違う人々の顔は、昨日よりも少しだけ明るく見えた。彼らに対する妬みや嫉みは、もう心のどこにも見当たらない。ただ、社会を構成する一人ひとりに対する深い敬意と、こんなささやかな幸せを提供してくれる世界への感謝だけが、胸の奥で温かく灯っていた。
ミスタードーナツの看板が見えてきた。
自動ドアが開き、甘い香りが彼を優しく出迎える。
shimoの人生は、これからもきっと失敗だらけで、空回りばかりだろう。
しかし、彼が彼自身の足で歩き続ける限り、その不器用な足跡は、いつか誰かをふっと笑顔にするための、かけがえのない轍となっていくに違いない。
「いらっしゃいませ!」
店員の明るい声に、shimoは満面の笑みで応えた。
彼の「 #推しドをあらわす1行 」を探す旅は、まだ始まったばかりだ。
(完)
このショートストーリーは、以下のサイトを参考にさせて頂きました。
https://www.misterdonut.jp/
https://www.misterdonut.jp/oshido1gyou_cp/
https://www.duskin.co.jp/news/2026/pdf/261006_01.pdf
