メッシの3点と、4701回目のチェックアウト(架空で空想のショートストーリー)※画像はすべてAIによるイメージです
第1章:狂熱の金曜日と、冷たい数字の羅列
令和8年(2026年)6月18日、金曜日。午前9時57分。 日本列島は、いや、世界中が、一種の狂熱の坩堝(るつぼ)と化していた。
地下深く、分厚いコンクリートと無数の生体認証ゲートに守られた政府の非公開施設——通称「サイバーインテリジェンス統合分析室」。その静寂に包まれた薄暗い空間で、shimoはコーヒーの入ったマグカップを片手に、壁一面を覆う巨大なマルチモニターを見上げていた。
彼の視線の先には、全く毛色の違う三つのニュース映像が、音量を絞られた状態で並んで再生されている。
一つ目のモニターには、北中米で開催されているサッカー・ワールドカップのハイライト映像。アルゼンチン代表のユニフォームを身に纏う、38歳にしてなお「神の子」と呼ばれる男、リオネル・メッシの姿があった。彼はたった今、劇的なハットトリックを決め、スタジアムは地鳴りのような歓声に包まれている。アナウンサーが「歴史的瞬間!年齢という概念を凌駕した!」と絶叫しているのが、テロップの文字から読み取れた。

二つ目のモニターには、中東の灼熱の太陽の下、ペルシャ湾とオマーン湾を結ぶ要衝、ホルムズ海峡をゆっくりと進む巨大なオイルタンカーの姿。画面の隅には「米国とイラン『戦闘終結に向けた覚書』正式発効。ホルムズ海峡、2年ぶりの安全通航再開」という見出しが躍っている。

そして三つ目のモニターには、東京証券取引所の電光掲示板。そこに表示された数字は、日本経済の常識を根底から覆すものだった。『日経平均株価、初の7万1000円台を突破』。市場関係者たちが歓喜の声を上げ、シャンパンを開ける映像がリピートされている。

「いやあ、shimoさん。今日は世界中がお祭り騒ぎっすねえ」
背後から、軽い足音とともにSENAが声をかけてきた。20代後半の若手捜査官である彼は、最新のタブレット端末を片手に、どこか呆れたような、それでいて少し浮かれたような表情を浮かべていた。
「メッシの3点目、見ました? あのフリーキック、どう物理法則を無視したらあんな軌道を描くんですか。おまけに中東はついに平和の第一歩を踏み出し、株価はバブル期すら遥かに置き去りにして7万円超え。俺の細々とやってるNISA口座も、今日はウハウハですよ。この世の春ってやつですかね」
SENAの言葉に対し、shimoはモニターから視線を外さず、ボソリと呟いた。
「……春の陽気に誘われて出てくるのは、花や蝶だけじゃない。泥の中で蠢く虫たちも同じだ」
shimoは手元のキーボードを叩き、中央のメインモニターに、ある一つの小さな「地方ニュース」のウェブ記事を拡大表示した。それは、世界的な大ニュースに比べれば、あまりにも地味で、取るに足らない三面記事だった。
『他人の個人情報で会員登録4700回、Amazonギフトカード等790万円分を騙し取った会社役員を逮捕』
SENAはタブレットから顔を上げ、その見出しを見て鼻で笑った。 「あー、それですか。今朝のブリーフィングでも見ましたよ。都内のITコンサル会社の役員が、ダークウェブで買った他人の名簿を使って、ポイ活サイトや通販サイトに架空登録を繰り返したってやつですよね。初回登録のポイントやキャンペーンを利用して、ギフトカードをちょこちょこ騙し取ってたとか」
SENAの言う通り、事件の概要は一見すると非常にシンプルだった。 インターネット上のサービスには、新規顧客を獲得するために「初回登録で500円分のポイント付与」といったキャンペーンを行っているものが無数にある。この逮捕された会社役員は、不正に入手した実在する他人の氏名、住所、電話番号などを使い、自動化スクリプトを組んで4700回もの新規会員登録を実行した。そして、付与されたポイントを即座にAmazonギフトカードなどの電子ギフト券に交換し、それを転売サイトで換金していたのだ。
「被害総額790万円。4700回もチマチマと登録作業を繰り返して、ようやくその程度の額です。IT会社の役員なら、普通に真面目に働いた方がよっぽど稼げるでしょうに。人間のセコさってのは、役職には比例しないもんですね」
SENAは肩をすくめたが、shimoの目は笑っていなかった。彼はマグカップをデスクに置き、静かに口を開いた。
「SENA、君は数字の表面しか見ていない。4700回で790万円だ。1回あたりの平均獲得額はいくらになる?」
「ええと……」SENAは暗算した。「およそ、1680円ですね」
「その通りだ。1680円。これは、システムが『異常値』として検知しない絶妙なラインだ。金融機関のマネーロンダリング監視システム(AML)は、通常、数十万円以上の不自然な資金移動にアラートを出す。しかし、1000円台の少額決済が、何千もの異なるIPアドレスと異なる名義から、異なるタイミングで行われた場合、現在のAI監視網はそれを『通常の一般ユーザーの購買行動』として処理してしまう」
shimoはキーボードを叩き、モニターに複雑なネットワーク図を表示させた。無数の小さな点が、一本の太い線に収束していく図だった。
「この会社役員は、確かに790万円分のギフトカードを騙し取った。だが、それは彼自身の『取り分』、あるいはシステムを稼働させるためのテストランに過ぎない。警察が踏み込んだとき、彼はなぜか、押収されたPCのデータを消去しようともしなかった。まるで、自分が逮捕されることを最初から知っていて、何かから目を逸らさせるために『おとなしく捕まった』かのように」
「目を逸らさせる……? 何からですか?」
「彼の構築した4700の架空アカウント群は、単なる詐欺の道具じゃない」 shimoの声が一段低くなった。
「これは、国際的なマネーロンダリング網における、不可視の『マイクロペイメント・インフラ』だ。彼らはこれを『スマーフィング』と呼ぶ。巨額の資金を無数の少額に分割し、システム網をすり抜けさせる手法だ。このインフラを使えば、例えば数十億円、数百億円という資金を、誰にも気づかれずに国境を越えて移動させることができる」
SENAの顔から笑みが消えた。「じゃあ、このセコい会社役員は……」
「ただのトカゲの尻尾だ。それも、わざと切り落とされた尻尾。我々がこの『790万円のアマギフ詐欺』に気を取られ、事件解決の調書を書いているまさにこの瞬間、本命の巨額のデータが、この男が構築したルートを通って移動しているとしたらどうだ?」
shimoは三つのモニターを指差した。
「今日という日は、あまりにも出来事が多すぎる。米国とイランの合意、異常な株価の高騰、そしてメッシのハットトリック。世界中の人々の視線と、情報機関の監視リソースが、全てそちらに釘付けになっている。泥棒が一番仕事がしやすいのは、祭りの日だということを忘れるな」
第2章:ホルムズの静寂と、仕掛けられた7万1000円
「ちょっと待ってください、shimoさん。話が飛躍しすぎてませんか?」 SENAは椅子を引き寄せ、モニターの前に座り直した。 「百歩譲って、このアマギフ詐欺の裏にマネロン組織がいたとしましょう。でも、それが中東の和平合意や、日経平均の爆上がり、ましてやサッカーの試合とどう関係するんですか? まるで陰謀論者のブログですよ」
shimoは深くため息をつき、電子タバコを手に取ったが、ここは禁煙室だったことを思い出し、代わりにポケットからミントタブレットを取り出して口に放り込んだ。彼は極度の糖分・刺激物依存症だったが、仕事中はミントで気を紛らわせる術を身につけていた。
「では、一つずつ事実(ファクト)を整理していこう。まず、米国とイランの『戦闘終結に向けた覚書』だ。SENA、この合意が世界経済に及ぼす影響を説明できるか?」
SENAは警察官僚としての優秀な頭脳をフル回転させた。
「ええ、まあ。ここ数年、中東情勢は最悪でした。イスラエルと周辺勢力の衝突に端を発し、イランが支援する武装組織が紅海やホルムズ海峡でタンカーへのドローン攻撃を繰り返してきた。ホルムズ海峡は、世界の原油の約2割、日本の原油輸入の8割以上が通過する大動脈です。ここが実質的に封鎖状態にあったため、原油価格は1バレル150ドルを超え、世界中が強烈なインフレと不況に見舞われていました」
「その通りだ」shimoは頷いた。
「そして今日、米国とイランが正式に合意に達し、海峡の安全が保証された。先ほどタンカーが無事に海峡を通過した映像が世界に流れたことで、原油の先物価格は一気に暴落。インフレ懸念が払拭され、世界中の投資マネーが株式市場に還流し始めた」
「それが、この日経平均7万1000円突破の理由でしょう?」SENAは胸を張った。
「日本はエネルギーの輸入依存度が高い分、原油安の恩恵を一番大きく受けます。それに加えて、AI関連や半導体産業の好調、新NISAによる個人投資家の資金流入が重なった。経済の教科書通りの反応じゃないですか」
「教科書通り、か」 shimoは皮肉げに笑った。
「2024年に日経平均が4万円を超えた時も、皆そう言った。だが、そこからわずか2年で7万1000円だぞ? 実体経済、つまり国民の給料や企業の真の稼ぐ力は、そこまで劇的に向上しているか? 街の定食屋のラーメンが一杯3000円になっているわけでもないのに、株価だけが異常に膨張している。これは自然な市場の動きではない。『見えざる手』が介在している」
shimoは再びキーボードを操作し、日経平均を牽引している特定の銘柄群のチャートを表示した。
「見てみろ。この数週間、中東合意の噂が流れ始めた頃から、特定の海外ファンドを経由して、日本のAIインフラ関連株や防衛関連株に不自然な規模の資金が流入している。彼らは市場のアルゴリズムを利用し、少しずつ、しかし確実に株価を吊り上げ(仕手化し)てきた。そして今日の『合意発表』で、一般投資家の買いが殺到した瞬間に、彼らは高値で売り抜けようとしている」
「仕手筋の動き……。でも、それも金融市場じゃよくあるマネーゲームですよね」
「問題は、その『仕手筋の原資(タネ銭)』がどこから来ているかだ」 shimoは、鋭い眼光でSENAを射抜いた。
「国際政治の裏側を想像してみろ。イランが支援する過激派組織が、何の対価もなしに、素直にタンカーへの攻撃をやめると思うか? 彼らの資金源は海賊行為と密輸だ。それをやめさせるためには、表に出せない莫大な『手切れ金』、あるいは『裏金』が必要になる。しかし、西側諸国がテロ組織に直接送金することなど、政治的にもシステム的にも不可能だ」
SENAの顔色が変わった。「まさか……」
「その通りだ。合意の裏で、中東の過激派組織に対して、第三国やダミー法人を経由した数千億円規模の資金提供が密約されている。しかし、その金は『クリーンな資金』として彼らの手に渡らなければならない。そこで使われるのが、複雑なマネーロンダリング網だ」
shimoは、画面に映るアマギフ詐欺の会社役員の顔写真と、日経平均のチャート、そして中東の地図を線で結んだ。
「資金の流れ(マネートレイル)はこうだ。 第一段階。どこかの国家や闇のパトロンが用意した裏金が、暗号資産に変換される。 第二段階。その暗号資産が、あの会社役員が構築したような『4700の架空アカウント』群に分配され、アマゾンギフトカードや無数のオンライン決済システムの電子マネーとして小口化(スマーフィング)される。 第三段階。小口化された資金は、追跡不可能な状態で再び集約され、ダミーの投資ファンドの皮を被って日本市場に流れ込む。 第四段階。彼らは日本の株式市場で仕手戦を仕掛け、株価を7万1000円まで吊り上げることで、資金をさらに合法的に倍増させる。 第五段階。高値で売り抜け、完全に『株式投資で得た正当な利益(クリーンな金)』として、中東の過激派組織のフロント企業の口座へと送金される」
shimoの解説を聞き終え、SENAは絶句した。
「つまり……日経平均の歴史的な爆上がりは、テロ組織の裏金をロンダリングし、さらに増殖させるための巨大な洗濯機(マネー・ランドリー)だったと……?」
「そして、その洗濯機を回すための重要な歯車の一つが、あのセコい会社役員が構築した4700のアカウント網だったというわけだ」
第3章:神の子の左足と、世界最大の「スピン」
「しかし、shimoさん。だとしたら、なぜ奴らはあんな会社役員を、こんなタイミングでわざと逮捕させたんですか? 秘密裏に資金洗浄を済ませたいなら、警察に目をつけられるような真似は避けるべきでは?」
SENAの疑問はもっともだった。犯罪組織にとって、自らのインフラが警察の手に落ちることは致命的なリスクであるはずだ。
「目くらまし(スピンコントロール)だよ」 shimoは三つ目のモニター、メッシが歓喜の咆哮を上げている映像を指差した。
「現代のサイバー防衛システムは、各国の諜報機関がAIを用いて24時間365日、世界中の不審なデータトラフィックを監視している。数千億円規模の資金が、いくら小口化されているとはいえ、一斉に動けば、必ずどこかの監視網の網に引っかかる。彼らが資金を最終的な口座に送金(チェックアウト)するためには、世界中の監視機関の『目』が、別の場所に釘付けになっている一瞬の隙が必要なんだ」
「それが……ワールドカップのメッシのハットトリックだと言うんですか?」 SENAは呆れたように頭を掻いた。
「いくらなんでも飛躍しすぎですよ。メッシのプレイまでサイバー犯罪組織が操っているって言うんですか? 彼は今年38歳ですよ。日々の血を吐くような努力と、天性の才能があのゴールを生んだんです。俺は高校時代サッカー部でしたからわかります。あんなの、コンピューターで操作できるもんじゃありません!」
「落ち着け、SENA。私もメッシの才能を疑っているわけじゃない。彼は間違いなく本物の天才だ。だが、『環境』は操作できる」
shimoはキーボードを叩き、W杯の試合のデータログと、スタジアムのネットワークトラフィックの解析結果を画面に表示させた。
「2026年大会から、スタジアムのVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)と半自動オフサイドテクノロジーは、完全にAIと連動したシステムに移行した。ボール内のセンサーとスタジアムの数十台のカメラが、ミリ単位で選手の動きを解析している。だが、もしそのシステムに、ほんのわずかな、コンマ数秒の遅延(ラグ)や、数ミリの座標の改ざんを意図的に引き起こす『バックドア』が仕掛けられていたとしたら?」
「判定を……操った?」
「決定的なシーンでの微妙なオフサイド判定。ファウルの有無。メッシ自身は純粋にプレイしているだけだ。だが、彼が最も劇的な形でゴールを決められるように、あるいは相手チームの決定機が微妙な判定で潰されるように、システムが『演出』を手助けしていたとしたらどうだ? さらに、SNSのアルゴリズムを操作し、メッシのプレイに関する動画や投稿が、瞬時に全世界のトレンド1位を独占するようにトラフィックを人為的に集中させる」
shimoの目は、恐ろしいほどの冷たさを帯びていた。 「人間は、物語(ドラマ)に弱い。スポーツの熱狂、英雄の帰還、歴史的瞬間。そうした強烈な感情の波が起きると、人々は思考を停止し、一つの画面に釘付けになる。そして、それは人間のアナリストだけでなく、AIも同じだ。世界中のトラフィック監視AIは、『W杯スタジアム周辺での異常な通信量の増大』をスポーツの熱狂によるものと判断し、リソースの大部分をそちらの解析に割いてしまう」
「その一瞬の『死角』を突いて、資金を移動させる……」
「そうだ。そして、その死角をさらに確実なものにするための囮(デコイ)が、あのアマギフ詐欺の会社役員だ。日本のサイバー警察は今日、彼の4700のログを解析し、詐欺事件の裏付けを取ることに必死になっている。中東の和平、株価の熱狂、スポーツの祭典、そして足元の小悪党の逮捕。情報が多すぎて、誰も全体像(ビッグ・ピクチャー)を見ようとしない。見えているのは、全て仕組まれたタイムラインの表面だけだ」
shimoは時計を見た。時刻は午前10時15分。
「株価が7万1000円のピークに達し、中東のタンカーが無事に海峡を抜け、メッシのハットトリックの余韻が世界を包んでいる今この瞬間。奴らは、利益を確定させ、最終的な送金ボタンを押す準備を整えているはずだ」
第4章:4701回目のチェックアウトと、緊迫の24時間
「shimoさん、冗談言ってる場合じゃないですよ! もしそれが本当なら、今すぐその送金を止めないと! テロ組織に数千億円が渡ったら、中東の和平なんて一瞬で吹き飛んで、また血の雨が降りますよ!」 SENAは立ち上がり、腰のホルスターを無意識に押さえた。
「武力で解決できる問題じゃない。これはサイバー空間での戦争だ」 shimoは凄まじいスピードでタイピングを始めた。画面には、黒い背景に緑色の文字列が滝のように流れ落ちていく。
「あの会社役員の押収されたPC。あれには、自動で送金を実行する時限式のスクリプトが仕込まれているはずだ。彼が逮捕され、警察の証拠品保管室に置かれている状態でも、インターネットに繋がってさえいれば、外部からのトリガーで起動する。それが『4701回目』の決済だ。4700回のダミー決済で構築した安全なトンネルを通って、一気に本命の資金が流れる」
「警察の保管室から!? 馬鹿な、証拠品のPCはネットワークから遮断されているはずです!」
「物理的なLANケーブルは抜かれているだろう。だが、あの役員のPCには、マザーボードの奥底に微弱な電波を受信する隠しチップが埋め込まれている可能性が高い。警察署内のWi-Fi、あるいは周囲を飛ぶドローンからの中継電波を拾って、スクリプトを起動させる気だ」
shimoはSENAを振り返った。
「SENA、君は今すぐ、あの役員が勾留されている所轄署へ向かえ。証拠品保管室に踏み込んで、対象のPCを物理的に破壊しろ。バッテリーを抜き、基盤を叩き割るんだ。ネットワークから完全に切り離せ。私はここから、奴らが構築した4700のアカウント網を逆探知し、資金のプールされている中継サーバーを特定して凍結する。時間との勝負だ」
「了解しました! 所轄には俺から連絡して強行突破します。……でも、shimoさん。相手は国家レベルのサイバー部隊かもしれませんよ。一人で防ぎきれますか?」
SENAの心配そうな声に対し、shimoは初めて、わずかに口角を上げて笑った。 「舐めるな。私は甘いものと、難解なパズルが大好物なんだ。彼らが用意した極上の謎解き、私が全部喰ってやるさ」
SENAが部屋を飛び出していくと同時に、shimoの孤独な戦いが始まった。 時刻は午前10時30分。
shimoは、金融庁と連携している極秘のアクセス権限を行使し、日本の銀行間ネットワークと暗号資産取引所の深層データベースに潜り込んだ。 敵の動きは巧妙だった。4700のアカウントは、それぞれが別々のタイミングで、微小なデータのパケットとして資金の移動指示を出している。それはまるで、広大な海に散らばったプランクトンが、一つの巨大な意志に操られて集結していくかのようだった。
「見つけた……」 shimoの目が鋭く光った。 4700の点から発せられた信号が、最終的に集約されようとしている「特異点」。それは、シンガポールにサーバーを置く、実態のないダミー法人の口座だった。
しかし、shimoがその口座にアクセスし、凍結コマンドを打ち込もうとした瞬間、相手側の防壁(ファイアウォール)が牙を剥いた。 画面が真っ赤に点滅し、『ACCESS DENIED(アクセス拒否)』の文字が無数にポップアップする。さらに、相手はshimoのアクセス元を逆探知し、強烈なDDoS攻撃(大量のデータを送りつけてシステムをダウンさせる攻撃)を仕掛けてきた。
「くっ……! さすがに手強いな。W杯のトラフィックの裏に隠れているからといって、無防備なわけじゃないってことか」
施設のサーバーが悲鳴を上げ、照明が瞬く。shimoは冷や汗を流しながらも、指先を止めることなく、幾重にも防御層を展開し、同時に迂回ルートを探った。相手の攻撃アルゴリズムの癖を読み取り、一瞬の隙を突いてカウンターのコードを叩き込む。
『ピッ……』 イヤホンから、SENAの荒い息遣いが聞こえてきた。
『shimoさん! 所轄の保管室に着きました! 対象のPC、ありました! ……なんだこれ、電源が入ってないのに、ランプが微かに点滅してます!』
「それがスクリプトの起動合図だ! SENA、ためらうな! 物理的に破壊しろ!」
『了解!』 ガシャン! という鈍い破壊音がイヤホン越しに響いた。SENAが警棒か何かでPCを粉砕した音だ。
その瞬間、shimoの画面を覆っていた赤い警告表示が、フッと消え去った。 相手側のシステムが、トリガーとなる「4701回目の信号」を失い、一瞬のエラーを起こしたのだ。
「そこだっ!!」 shimoはそのコンマ数秒の隙を見逃さず、シンガポールのダミー口座に対する管理者権限(ルート)を奪取した。すぐさま全資金の凍結(フリーズ)コマンドを実行し、同時にインターポール(国際刑事警察機構)と米国のCIAに、この口座のログデータを自動送信する。
『FREEZE COMPLETE(凍結完了)』
画面の中央に、静かに緑色の文字が浮かび上がった。
shimoは深く息を吐き出し、椅子の背もたれに体重を預けた。汗でシャツが体に張り付いている。
「……終わったよ、SENA」
イヤホンから、安堵したようなSENAの笑い声が聞こえた。
『やりましたね。PCは完全にスクラップにしてやりましたよ。所轄の署長には後で大目玉を食らうでしょうけどね。……これで、数千億円の裏金はテロ組織には渡らない。世界は守られたってわけですか』
第5章:見えない戦争の終結と、残された希望
午後3時。 日経平均株価の終値は、7万1200円。市場は歴史的な大台突破に沸き立ち、夜のニュース番組はどこも祝賀ムード一色だった。 ホルムズ海峡のタンカー通航再開に関する特番が組まれ、専門家たちが「中東の恒久的な平和への第一歩」と声高に語っている。 スポーツコーナーでは、メッシのハットトリックが何度もリプレイされ、人々に感動を与え続けていた。
そして、あの「アマギフ詐欺790万円」の会社役員逮捕のニュースは、もはやどのチャンネルも報じていなかった。巨大な情報の濁流の中に、完全に飲み込まれ、消え去ってしまったのだ。
「結局、世間は何も知らないままですね」 夕暮れの迫る統合分析室で、報告書を書き終えたSENAが、缶コーヒーを飲みながら呟いた。
「我々が裏でどれだけの死闘を繰り広げ、どれだけの血が流れるのを防いだか。誰も知ることはない。株高に浮かれ、サッカーに熱狂し、表面的な平和のニュースを信じて眠りにつく。……なんだか、虚しくなりませんか?」
shimoは、デスクの引き出しから取り出したチョコレートバーの包みを開けながら、静かに首を振った。

「虚しくはないさ。それが我々の仕事であり、この社会が正常に機能している証拠でもある。人々は、日々の生活を送り、喜怒哀楽を感じ、明日への希望を持つ権利がある。その足元に広がる深い闇を覗き込むのは、我々のような一部の人間だけで十分だ」
shimoはチョコレートをかじり、モニターを見つめた。そこには、凍結されたシンガポールの口座のデータが表示されている。
「確かに、今回の事件で露呈したのは、我々の社会の危うさだ。複雑化した金融システム、AIによる市場の支配、そして個人の善意や熱狂すらも計算し尽くして利用する見えない悪意。あの会社役員が構築した4700のダミーアカウントは、個人情報の漏洩に対する我々の無関心が作り出した怪物だった」
「ええ。便利さと引き換えに、俺たちは自分たちのデータを切り売りしている。それが巡り巡って、テロの資金源になるなんて、普通の人は想像もつきませんよ」
「だがな、SENA」 shimoは振り返り、真っ直ぐな瞳で後輩を見つめた。
「システムは完璧ではない。どんなに精緻に組まれた陰謀も、最後は『人間』が介入することで綻びが生じる。今回、奴らの計画を食い止めたのは、最新のAIでも、完璧な防壁でもない。君が現場に走り、自らの手でPCを破壊するという『物理的な決断』を下したからだ。そして私も、機械の計算を超えた直感で、奴らの意図を先読みした」
shimoは再び、三つのモニターに映像を映し出した。 平和の海を行くタンカー、熱狂するスタジアム、そして活気づく街の人々の姿。

「情報化社会は、時に人を迷わせ、操る。だが同時に、我々に真実を見つけ出す力も与えてくれる。裏金は凍結されたが、米国とイランの合意自体は破棄されなかった。タンカーは今日も海峡を渡り、人々の生活を支える物資を運んでいる。メッシのプレイに感動した子供たちの中から、明日を生きる希望が生まれている。それは決して、仕組まれただけの偽物じゃない。人間の心から生まれる本物の光だ」
SENAは少し照れくさそうに笑い、空になった缶コーヒーをゴミ箱に放り投げた。
「なんか、shimoさんにそんな熱いこと言われると調子狂うなあ。まあでも、俺のNISA口座の利益がテロリストの血まみれの金じゃなくて、少しはクリーンな経済成長のおかげだって思えるなら、今日の俺の走りも無駄じゃなかったってことですかね」
「そういうことだ。お前のその安い給料の足しにはなるだろう」
「一言余計ですよ! あーあ、始末書書くの憂鬱だなあ」
SENAのぼやきを聞きながら、shimoは再びキーボードに向かった。 世界はまだ問題だらけで、見えない戦争はこれからも続く。一つの事件を解決しても、また明日には新たな企みがネットワークの暗がりで産声を上げるだろう。
だが、shimoの胸の中には、確かな静寂と希望があった。 システムを悪用する者がいる限り、それを守り、超えていこうとする人間の意志もまた、存在し続けるのだと。
令和8年6月18日。 世界中が狂乱した長い一日は、誰にも知られることなく、静かに幕を下ろそうとしていた。 shimoは、モニターの隅でチカチカと点滅していた「未読アラート」の通知を、静かに『チェックアウト(確認・終了)』した。
