2月6日。暦の上では春が始まったばかりだというのに、東京の隅っこにある「九十九時計店」の入り口から入り込む風は、まだ突き刺さるように冷たかった。
店主の源さんは、分厚いレンズの眼鏡を鼻先にずらし、ピンセットで古びたゼンマイ時計の心臓部をいじっていた。そこへ、近所のデザイン会社に勤める常連の若者、ハルくんが飛び込んできた。
「源さん、知ってます?今日は『ブログの日』なんですよ。サイバーエージェントって会社が定めた、2(ブ)6(ログ)の語呂合わせで」
源さんは顔を上げず、鼻を鳴らした。 「サイバーなんだかエージェントなんだか知らねえが、横文字は腹に溜まらねえ。ブログだぁ?日記なら帳面に書けば十分だろ」
ハルくんは苦笑いしながら、スマホの画面を源さんに見せた。 「そう言わずに。言葉ってのは、紙に書こうが画面に打ち込もうが、『言葉は心の使い』って言うじゃないですか。心の中にある思いを、代わりに届けてくれる使い魔みたいなもんですよ」
「心の使い、ねぇ……」 源さんの手が止まった。その言葉には聞き覚えがあった。亡き妻の静子が、手紙を書くたびに口にしていた言葉だったからだ。
「……ハル。その『ぶろぐ』ってのは、誰でも見られるのか?」 「ええ。世界中の誰にでも。でも、たった一人に届けるために書いてる人もたくさんいますよ」
源さんは、作業台の隅に置かれた、もう動くことのない小さな銀色の懐中時計を見つめた。それは静子が大切にしていたものだが、どの時計屋に持って行っても「部品がない」と断られ、源さん自身も直せずにいたものだった。
その日の夜。源さんはハルくんに教わった通り、不慣れな手つきでスマホと格闘した。サイバーエージェントが運営する「Amebaブログ」の開設画面。「タイトル」の欄に、彼は少し迷ってからこう打ち込んだ。
『九十九時計店、本日も時を刻めず』
最初の投稿は、短かった。
「今日はブログの日だそうだ。 亡くなったカミさんの懐中時計が、もう十年も止まったままだ。 腕のいい職人だなんて威張ってみても、一番直したい時計一つ直せやしない。 言葉は心の使いと言うらしいが、俺のこの情けない心は、どこへ届くんだろうな」
打ち込むだけで一時間かかった。指先が震えた。「公開」のボタンを押すときは、まるで爆弾のスイッチを押すような心持ちだった。
翌朝、店を開けると、ハルくんが息を切らしてやってきた。 「源さん!ブログ、すごい反響ですよ!」
源さんが恐る恐るスマホを覗くと、そこには数件の「コメント」が届いていた。
『私の父も時計職人でした。直せない時計がある悔しさ、父もよく酒を飲みながら話していました』 『止まった時計も、思い出まで止まったわけじゃないですよ』
そして、最後の一つに源さんの目は釘付けになった。
『その時計、もしかして1950年代の〇〇製じゃないですか?私はそのメーカーの元技師です。倉庫に古い部品が残っているかもしれません。もしよろしければ、力にならせてください』
源さんは、店のカウンターに突っ伏した。 眼鏡の奥から溢れたものが、古びた作業台に染みを作っていく。
何年も一人で抱えてきた後悔。職人としての矜持と、それを果たせない無力さ。そんな泥臭くて格好悪い「心」を、たどたどしい「言葉」という使いに出しただけで、見ず知らずの誰かが手を差し伸べてくれた。
数週間後。 九十九時計店のカウンターには、カチ、カチ、と規則正しい音を立てる銀色の懐中時計があった。 源さんは、再びスマホに向かっていた。今度は少しだけ、入力の速度が上がっている。
『言葉は心の使い、二度目の春』
「カミさんの時計が、今日、再び時を刻み始めました。 助けてくれたのは、海の向こうに住む、顔も知らない元技師さんです。 ブログなんて若者の遊びだと思っていましたが、案外、捨てたもんじゃありません。 止まっていたのは時計じゃなく、俺の心の方だったようです」
書き終えた源さんは、ふと窓の外を見た。 商店街を歩く人々、空に流れる雲。そのすべてが、これまでより少しだけ鮮やかに見えた。
「おい、ハル。サイバーなんちゃらによろしく言っといてくれ」 店を訪れたハルくんに、源さんは照れ隠しのぶっきらぼうな声で言った。 「今日という日は、案外いい日だったってな」
2月6日。ブログの日。 それは、閉じ込めていた心が、言葉という翼を得て、誰かの元へと旅立つ記念日。 東京の片隅にある小さな時計店で、また一つ、新しい物語が時を刻み始めていた。
