悪石島から避難に学ぶことわざ「降らぬ先から傘」

「降らぬ先から傘」

このことわざは読んだ通りに、雨が降る前から傘を準備しておく方が良いということ。

何かことが起きてから備えてもそれは後の祭りで、備えがあれば憂いは少なくなる。

最大震度6弱などの地震が頻発する鹿児島県十島村の悪石島から住民の島外避難が始まった。

地震が頻発する恐怖は体験した者でなければ解らないだろう。小さな地震でも揺れが始まると「このまま大地震になるのではないか?」という恐怖が頭をかすめる。

それが頻繁に起きるわけだから、現在の悪石島周辺の方々は本当に夜も眠れないだろう。しっかりと非難して体を休めて欲しい。

我々も遠く離れた地域の話とたかをくくらずに備えたい。

雨が降る前から傘をさす必要はないが、折りたたみ傘を持って出れば万一の降雨 もずぶ濡れにはならずに済む。

そんな備えを怠る者や面倒臭いと思う人には、こんな言葉も添えたい。
「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者はおそれず」

賢い者は準備を迷わないし、仁に篤い者はたたただ恐怖にフリーズしないし、勇者は冷静に振る舞う。

そんな大人に私もなりたい。

「降らぬ先から傘」

SNSに溢れる情報に感じる四字熟語「一知半解」

「一知半解」(いっちはんかい)

少し知っている程度で、十分に理解して自分のものになっていないこと。
中途半端な知識で、なまかじりや生半可、半可通のこと。

世の中に飛び交うSNSのやり取りや投稿をみていると一知半解をよく感じる。

とりあえず表面上の感覚やどこかの誰かからの受け売りで他の誰かを誹謗中傷したり、否定したりする投稿が目立つ。

どこかの投稿に対して否定ありきで中途半端な反論のためのデータを拾ってきたり、自分少しだけ知っている知識を否定されるとまるで全人格を否定されたと思い込んで感情的に反論するやり取りなど、本当に不毛だし時間の無駄だなと感じる。

だから、自分も一知半解にならないように気を付けたいし、中途半端な知識しか知らないことには口を出したり口を挟まないように心がけている。

他の人が得意げに何か知っているかのような投稿を見ても反射的に感情的な否定はしないし、自分は自分の目の前のことに集中することが一番大切だと理解している。

「生兵法は大怪我の基」ということにも通じるわけで、中途半端で一知半解な知識が自分にとって大変な損害をもたらすことがあることを心得ておこう。

「一知半解」(いっちはんかい)

仕事での成果を焦る人に贈ることわざ「商いは牛の涎(よだれ)」

「商いは牛の涎(よだれ)」

商売や仕事は、牛のよだれが細く長く切れ目なく流れ出るように続けて、こつこつと気長に辛抱して継続しなさい。しっかりと軌道に乗るまでは利益を急がないように、という意味のことわざ。

「商い三年」ということわざと同じく、仕事や商売は長い年月をかけて実績と信用や信頼を積み重ね、それが三年程度経ってくるとようやく利益になり始めることを教えてくれる。

子供のころには習い事をするにも学校などに通いながらということになるから、何年もかけて一つのことを習得していく過程に違和感がないけれど、大人になってから新しい仕事や習い事などを始めると早く成果を出したくなる気持ちも解る。

その気持ちとは裏腹に、他の人は自然にやっているように見えて自分だけができていないような気になったりもする。

でも自然にできているように見える人も実は何年もかけて少しずつ習得してきているはず。

自分のペースで「焦らず弛まず怠らず」に、牛のよだれのように継続していくことを心がけよう!

「商いは牛の涎(よだれ)」

日々が辛いなと感じる人に贈る四字熟語「一陽来復」

「一陽来復」(いちようらいふく)

来復の「復」は、陰暦の11月または冬至を指す。来復で陰暦の11月とか冬至の頃が来たという意味。

「一陽」は初春の気配を表す熟語で、春がやってくるという意味。

これをつなぎ合わせて、厳しい冬が終わって暖かい春が巡ってくることを表し、辛いことや嫌なことが続いた後には必ず良いことにつながるという意味の四字熟語となっている。

人は生活していると、当然ながら今まさに目の前の現実が全てで、辛い日々を送っているとそれがいつまで続くのかと不安を感じてしまう。

それが高じると、先にはもっと悪いことになるのではないかとネガティブ思考がより強くなってしまうこともあるし、いずれは辛い現状が変わる日が来るとはなかなか考えられない。

けれども、悪いことだけがひたすら続くということもないし、必ず辛い日々が良いことにつながる日が来ると考えを切り替えることが、逆に良いことを引き寄せる力につながる場合もある。

だからこそ、昔からの四字熟語に「一陽来復」というような言葉もあるわけだ。

最近YouTubeで特によく見るのが二子山部屋を始めとする相撲部屋関係動画の中で日々稽古に励む力士たちにも「一陽来復」という言葉を贈りたい。

稽古は裏切らない。そして、今はなかなか番付昇格が難しくても必ず成果につながるときがくる。

それを信じて、今日も目の前の稽古や仕事に励もう!

「一陽来復」

すぐに成果を出したいと焦る人に贈ることわざ「商い三年」

「商い三年」(あきないさんねん)

商売は始めてから三年くらい経たなければ利益を上げるには至らないから、どんな商売でも最初の三年は辛抱強く頑張れという意味のことわざ。

このようなことわざができた時代と今の時代は違うという人もいるかもしれない。

現代は変化が速く、どんな情報でも昔に比べれば簡単に入手できる時代だから三年も辛抱するのは難しいかもしれない。

それでも、通底しているのは三年くらいは経たないと自然に体が動くようにはならないし、業界や周辺の知識も見えてくるようにはならない。

昭和の時代には丁稚(でっち)にも似た徒弟制度や師弟関係、主従関係が残っていたので我慢や辛抱が分かりやすく伝わったけど、今の時代は師匠や先輩が避けられる傾向にあるから逆に職人技を身に付けるのが難しい。

ただし転職だって、よほど自分で身に付けた手に職を生かした転職でなければ、新しい職場に慣れるのにも最初の三日、一週間、一か月、三か月、半年、一年、三年と少しずつ少しずつ慣れていき新しい仕事も覚えていくもの。

ことわざが古いと侮ることなかれ。すべての故事・ことわざ・四字熟語には、古代から変わらない人間本来のありようについて知恵を教えてくれている。

何事もまずは三年頑張ろう。「商い三年」(あきないさんねん)

やたらと口数が大人に贈る四字熟語「蛙鳴蝉噪」

「蛙鳴蝉噪」(あめいせんそう)

やかましいばかりで実りのない議論や、内容が乏しい下手な文章のことや無駄が多くて中身が伴わないことを意味する四字熟語。

蛙や蝉がやかましく鳴くことから、うるさいばかりで何の役にも立たないことが漢字の由来。

先日は口数が多い人に贈る「空き樽は音が高い」ということわざを学んだ。ほとんどそのことわざと意味が同じ。

どちらも中身がないことをやかましく議論したり、声が大きい割には中身が重要ではないことを意味する。

ついつい声が大きい人の言うことは説得力が出てしまうこともあるが、冷静に聞いてみると中身の重要性を感じられなかったりすることもある。

ただ、逆説的に言うと、どんなに重要なことや大切なことも声が小さいと説得力が乏しくなってしまうことがあるから、できるだけ大きな声やアクションで伝える努力は必要なのかもしれない。

個人的には「蛙鳴蝉噪」な人や「空き樽は音が高い」的な人とは関わりになりたくないし、自分はそんな存在にはなりたくない。

うるさいばかりで役に立たなかったり、中身のないことを声高に伝えることを美学とする人たちもいるから世の中は不思議なものだ。

「蛙鳴蝉噪」