令和8年2月21日 今日も平凡な一日にありがとう!

 

インクの記憶と、名前のないペン(架空のショートストーリー)

第1章:アルゴリズムの海に沈む日

評価される言葉、消費される活字

2026年2月21日、土曜日。冬の終わりの鈍色の空から、刺すような冷たい風がビルの谷間を吹き抜けていた。

大手新聞社の社会部に籍を置くベテラン記者、shimoは、休日の誰もいないオフィスで一人、ブルーライトの冷たい光に顔を照らされていた。目の前のデュアルモニターの左側には、彼が三日徹夜して書き上げた「地方都市における高齢者インフラの崩壊」という渾身のルポルタージュが表示されている。そして右側のモニターには、社が昨年から導入した最新の「AI記事評価システム」のダッシュボードが開かれていた。

画面の中央には、無機質な赤い文字で「Dランク」という判定が点滅している。

『予測PV数:低。SNS拡散性:極めて低。エンゲージメント率:期待薄。提案:タイトルに「絶望」「崩壊の危機」などのパワーワードを配置し、文字数を40%削減。より感情的なトピックへフォーカスすることを推奨します』

shimoは深く、重い溜息をついた。キーボードに置かれた指先が微かに震えている。

「感情的なトピック、ね……」

自嘲気味に呟いた声は、空調の低い唸り音にかき消された。彼が足で稼ぎ、何十人もの声を拾い集め、裏付けを取り、推敲に推敲を重ねた数万字の記録は、このAIにとっては単なる「読まれない文字列」に過ぎなかった。

近年、メディアの在り方は劇的に変わった。記事の価値は、それがどれだけ「読者の感情を逆撫でするか」、あるいは「心地よい同調をもたらすか」という、即物的なデータのみで測られるようになった。記者の評価も同様だ。X(旧Twitter)のフォロワー数、記事への「いいね」の数、そしてAIが弾き出すエンゲージメント予測値。それらが絶対的な権威となり、編集会議では「この記事はバズるのか?」という言葉ばかりが飛び交う。

shimoの後輩たちは皆、見出しの最適化(SEO)とSNSのアルゴリズムをハックすることに長けていた。彼らは足で稼ぐ代わりに、SNSのトレンドワードから逆算して記事を「組み立てる」。その結果、中身の薄い、しかし刺激的な記事が量産され、会社のPVは右肩上がりに伸びていた。

「shimoさん、今の時代、読まれない記事は存在しないのと同じですよ。真実だろうが何だろうが、パッケージングが古ければ誰もクリックしないんです」

金曜日の夜、デスクにそう言い放たれた言葉が、耳の奥でまだリフレインしている。shimoは、自分がすっかり「時代遅れの遺物」になってしまったような虚無感に苛まれていた。

彼はふと、カレンダーの「2月21日」という日付を見つめた。 1872年、明治5年のこの日。日本初のフルタイム日刊新聞である「東京日日新聞」が創刊された日だ。 「紙に活字を刻む」こと。それはかつて、権力に対する監視であり、声なき者の声を世に届ける神聖な行為だったはずだ。しかし今や、記事はデジタルの海に投下された瞬間に消費され、数時間後には新しい情報の波に飲み込まれて消えていく、刹那的な娯楽コンテンツに成り下がってしまった。

「俺は、何のために書いているんだろうな……」

モニターの電源を乱暴に落とし、shimoは立ち上がった。このままここにいても、AIの指示通りに自分の言葉を切り刻むことなど到底できそうになかった。

第2章:2月21日の交差点

紙の匂いと古書店の静寂

冷たい風から逃れるように、shimoは地下鉄に乗り、神保町へ向かった。 休日とあって、スポーツ用品店やカフェには多くの若者が溢れていたが、一本路地裏に入ると、そこには昔ながらの静寂が保たれていた。

古い紙の匂い。埃とカビ、そしてインクの乾いた匂いが混ざり合った独特の香りが、通りを満たしている。shimoにとって、この匂いは精神安定剤のようなものだった。デジタルの海で溺れそうになった時、彼はいつもこの街に逃げ込み、物質としての「本」が持つ確かな重みに触れることで、どうにか自分を保ってきた。

ふと、いつもは素通りしてしまう、間口の狭い薄暗い古書店に足が止まった。 看板の文字は擦り切れて読めない。しかし、店先に積まれた無造作な和本や古い雑誌の山に、なぜか惹きつけられるものを感じた。

店の中に入ると、奥のストーブで何かがチロチロと燃える音が聞こえるだけで、店主の姿はなかった。天井まで届く本棚には、ジャンルも年代もバラバラな書籍が地層のように積み重なっている。

shimoは通路の奥へと進み、歴史文学の棚の前で足を止めた。背表紙の文字をぼんやりと目で追っていると、棚の隙間に挟まるようにして置かれている、一冊の古びた和装本のようなものが目に入った。それは本というより、古い手紙や書簡のコピーをスクラップした私家版の冊子のように見えた。

何気なく手に取り、パラパラとページをめくる。手書きのインクの滲み、筆圧の強弱が、コピー越しにも生々しく伝わってくる。それは、均一なデジタルフォントには決して出せない「人間の痕跡」だった。

あるページで、shimoの手がピタリと止まった。 そこに記されていた日付は、「明治四十四年二月二十一日」。 つまり、1911年。ちょうど今から、115年前の今日だ。

金之助の拒絶

その手紙は、夏目漱石が時の文部省に宛てて書いた、博士号辞退の書簡の写しだった。

『小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って、私は博士の学位を頂戴する理由を見出すことができません』 (※大意)

活字で添えられた解説文を読み、shimoは息を呑んだ。 当時、文学博士号は国家が与える最高の権威だった。それを拒絶することは、国家権力そのものへの反逆と捉えられかねない行為だ。実際、この辞退は当時の世間を大いに騒がせたらしい。

しかし、手紙に記された漱石の言葉は、気負いも衒いもなく、ただ静かに、しかし鋼のような意志で貫かれていた。

「ただの夏目金之助として生きる……」

shimoは、その言葉を口の中で反芻した。 漱石は、「博士」という国家が与える権威ある肩書きよりも、「自分自身の名前」で文章を書き、生きていくことを選んだのだ。他者が勝手に押し付けてくる評価のラベルを、彼は毅然として撥ね退けた。

その瞬間、shimoの頭の中で、AIの「Dランク」という赤い文字と、デスクの「バズらなければ意味がない」という言葉がフラッシュバックした。

現代の「権威」とは何だろうか。 それはかつてのような国家や文部省ではない。それは、SNSのアルゴリズムであり、AIが弾き出すスコアであり、無数の匿名のアカウントが形成する「バズ」という名の同調圧力だ。

自分はいつから、その見えない巨大な権威に怯え、ご機嫌を伺うようになってしまったのだろうか。

「フォロワー数が10万人の記者shimo」でも、「AI評価Sランクの記者shimo」でもない。ただの書き手としての「shimo」は、一体どこへ行ってしまったのか。

115年前の同じ2月21日、一人の作家が国家の権威に対して放った静かな拒絶の言葉が、時空を超えて、古びた紙の匂いとともにshimoの胸の奥深くに突き刺さった。

「そうか……俺は、名前を失っていたんだ」

shimoは冊子を元の場所に戻すと、深く一礼をして古書店を後にした。外の冷たい風が、今は心地よく火照った頬を撫でていった。

第3章:ただ、自分の名前で

デジタルの波間から掬い上げる真実

会社に戻ったshimoの顔つきは、数時間前の疲労困憊したそれとは打って変わっていた。

誰もいないオフィス。再びモニターの電源を入れる。 右側の画面で点滅する「AI記事評価システム」のダッシュボードを、shimoはマウスのクリック一つで完全に閉じた。SNSのトレンドを監視するツールも、PVのリアルタイム計測画面も、すべて落とす。

残ったのは、左側のモニターに広がる、真っ白なテキストエディタだけだ。

彼は、三日徹夜して書いた記事のデータを一旦別のフォルダに移し、何もない画面に向かってキーボードに手を置いた。

もう、バズるための感情的な見出しはいらない。アルゴリズムに好かれるためのSEO対策のキーワードもいらない。AIの顔色を窺って、自分の言葉を切り刻む必要もない。

ただ、自分が現場で見て、聞いて、心が震えた事実だけを。 名もなき人々の、しかし確実にそこに存在する苦悩と希望の声を。 自分が「正しい」と信じる言葉だけで、もう一度、最初から紡ぎ直すのだ。

カタ、カタカタカタ……。

静かなオフィスに、キーボードを叩く乾いた音が響き始めた。 それは決してスマートな文章ではないかもしれない。時代遅れで、泥臭くて、SNSのタイムラインでは一瞬でスクロールされてしまうような、重苦しい長文になるだろう。

それでも構わなかった。 書かれた文字はデジタルの海に放たれ、やがて消えゆく刹那的なものかもしれない。1872年の今日、初めて刷られた東京日日新聞のインクの匂いのような、物理的な重みはこのモニターの中には存在しない。

だが、言葉に込めた「熱」だけは、きっと誰かの網膜に焼き付き、心の奥底に沈殿するはずだ。自分が古書店で、115年前の漱石の言葉に救われたように。

『この記事が何万人に読まれるかは分からない。だが、確かに届くべき一人の読者がいる』

shimoの指は止まることなく動き続けた。 背後にそびえるデジタルの権威に背を向け、彼は今、ただの「shimo」という一人の人間として、自分の名前で、真実を刻み付けていた。

夜が明け始めた東京の空は、少しずつ白み始めている。 書き上げた数万文字の原稿の最後に、彼は小さく、しかし確かな誇りを持って、自らの署名を打ち込んだ。

―― 文:shimo

それは、アルゴリズムの海に静かに投じられた、反逆と再生の小さな、しかし確かな一石だった。