深夜のテレビ局、第4会議室。 窓の外には、眠らない街・東京の灯りが滲んでいる。
机の上に散らばっているのは、数えきれないほどの付箋が貼られた脚本の決定稿と、冷めきったコーヒーカップ。そして、数枚のスポーツ新聞だ。
「……ねえ、shimoさん。このシーンの台詞、もう少しだけ『熱』を足せませんか」
若手プロデューサーのsenaが、疲れ目で充血した瞳を脚本家に向けた。 shimoは、愛用の万年筆を指先で回しながら、壁のカレンダーに目をやった。
「senaちゃん、今日が何の日か知ってるかい?」 「2月5日……締め切りの3日前ですよ」 「はは、それも正解だ。でもね、今日は『プロ野球の日』なんだよ。1936年の今日、日本にプロ野球が誕生した。今の僕らが当たり前に熱狂しているエンターテインメントの、すべてが始まった日だ」
shimoは椅子を深くリクライニングさせ、天井を見上げた。
「当時、プロで野球を食いぶちにするなんて、誰も信じていなかった。批判も多かっただろう。それでも、彼らはグラウンドに立った。それから90年近い月日が流れて、今やWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が間もなく開催されようとしている。日本中が、いや世界中が侍たちの背中を追いかける時代だ」
senaは手元のスポーツ新聞に目を落とした。そこには、合宿で泥だらけになって白球を追う代表選手たちの写真が大きく躍っている。
「WBC……楽しみですよね。でも、プレッシャーも凄そうです」
「ああ、彼らが背負っているのは期待だけじゃない。これまでの歴史そのものだ。senaちゃん、僕の好きな言葉に**『百錬剛(ひゃくれんごう)』**というのがある」
shimoは手元のメモ帳に、力強い筆致でその三文字を書いた。
「百度鍛え直して、ようやく本物の強い鋼になる。プロ野球の世界そのものだと思わないかい? たった一打席、コンマ数秒の勝負のために、彼らは何万回、何十万回とバットを振る。手のひらがマメで潰れ、血が滲んでも、また握り直す。そのストイックな積み重ねが、折れない鋼のような精神を作り上げるんだ」
shimoは万年筆を置き、senaを真っ直ぐに見つめた。
「僕らの仕事も、これと同じじゃないかな」
senaはハッとしたように顔を上げた。
「この脚本、君はもう何十回と書き直しを求めてきた。僕もそのたびに、自分の言葉を叩き直してきた。時には自分の才能のなさに絶望して、筆を折りたくなる夜もあったよ。でもね、そうやって何度も熱を入れ、叩き、冷やし、また叩く。そのプロセスこそが『百錬剛』なんだ。何度も直したからこそ、この物語は、誰かの心を震わせる『鋼』の強さを持てるようになる」
「shimoさん……」
「WBCでマウンドに立つ投手も、バッターボックスに入る強打者も、みんな孤独だ。でも、その孤独を支えているのは、これまでの練習の日々という裏付けなんだよ。僕らも同じだ。この深夜の会議室で、ああでもないこうでもないと絞り出した言葉たちが、放送当日に視聴者の心に届く一球になる」
senaは、少しだけ震える手で脚本の束を抱きしめた。 窓の外では、夜明け前の空が少しずつ白み始めている。
「プロ野球の日……始まりの日ですね。私たちも、ここから新しい伝説を始めるつもりで、もう一度このシーンを練り直しましょう」
senaの言葉に、shimoはいたずらっぽく笑った。
「よし、乗った。じゃあ、今の台詞を全部ボツにして、もっと泥臭い、人間味の溢れる言葉に変えよう。WBCの決勝で、逆転ホームランを打つ瞬間のような、痺れるやつにね」
二人は再び机に向かった。 ペンが紙を走る音だけが、静かな会議室に響く。
それは、1936年に初めてプロの試合が行われたグラウンドの静寂と、どこか似ていた。 誰も見ていないところで繰り返される、地道な、けれど崇高な積み重ね。 「百錬剛」の教えを胸に、彼らは言葉という名の白球を、まだ見ぬ観客の心へと投げ込み続ける。
数時間後。 完成した新しいページを読み終えたsenaの目には、涙が浮かんでいた。
「これです。この言葉、きっと届きます」
「ああ、いい球を投げられた気がするよ」
shimoは窓を開けた。冷たい朝の空気が、熱を帯びた室内に入り込む。 2月5日。プロ野球の日。 歴史を作ってきた先人たちに敬意を表しながら、新しい時代の物語が、今まさに産声を上げた。
「さあ、senaちゃん。朝飯でも食べに行こうか。WBCが開幕する頃には、このドラマも日本中の話題になってるはずだよ」
「はい! 負けていられませんね」
二人は笑顔で会議室を後にした。 その足取りは、春のキャンプインを迎える選手たちのように、希望に満ちて軽やかだった。
