「挨拶は時の氏神」
このことわざの「挨拶」は仲裁のことを意味する。
誰かと喧嘩している場合は口論などを仲裁してくれる人は、ありがたい氏神様と同じであるという意味。
だから仲裁人が取り計らってくれる調停にはできるだけ速やかに従う方が賢明という教え。
振り上げた拳はなかなか自分で降ろすことはことはできない。
そんなときに第三者が仲裁してくれるということはとてもありがたいことで、それをないがしろにしてはいけない。
喧嘩や諍いを収めるのはタイミングがとても大切。そしてそのタイミングは非常に難しい。
そんなときに現れてくれる仲裁人という存在は本当にありがたいだろう。
時としてそんな仲裁人の呼びかけを感情的に否定してしまいそうになるが、それは賢くない人がやること。
賢い人はどこでどのように和解をすれば落としどころというか着地できるかを冷静に考えるものだ。
それを考えることができるか、できないか。またはそんな仲裁人が現れてくれるか、くれないか。
それは非常に大きな分かれ道になるだろう。
「挨拶は時の氏神」をよく覚えておこう。