これは、星の光が届くよりも遥かに遠い孤独と、瞼の裏側に広がる無限の宇宙についての架空のショートストーリーです。
2026年2月18日、水曜日。この日は96年前にひとりの青年が暗闇の中に小さな点を見つけた日であり、同時に現代人が泥のような眠りを希求する日でもありました。
冥王の瞬きと、水曜日にしか開かない仕立て屋(架空のショートストーリー)
1. 氷の縁(ふち)を歩く者
2026年2月18日、未明。 東京の気温は氷点下近くまで下がり、三鷹の国立天文台の森は、肺腑を刺すような冷気で満たされていた。
shimoは、研究棟の最奥にあるモニターの前で、充血した目をこすった。 画面には、漆黒の宇宙空間に散らばる無数のノイズと、その中にあるはずの「何か」を探すための解析コードが、白い川のように流れている。
「……いないな」
shimoの呟きは、誰の耳にも届くことなく、空調の低い唸り声にかき消された。 彼が探しているのは、太陽系外縁部天体(TNO)。かつて第9惑星と呼ばれた冥王星よりもさらに遠く、カイパーベルトの彼方にあるとされる未発見の惑星だ。
現代の天文学のトレンドは、華やかな系外惑星の生命探査や、重力波によるブラックホールの観測にある。shimoが専門とする太陽系の「外れ」の、しかも岩塊と氷の塊を探すような地味なサーベイ(探査)には、予算も、人も、そして時間も割かれない。
「shimoくん、そろそろ現実を見たらどうだ。君の探しているのは、ゴーストだよ」
先週、教授に言われた言葉が、また頭の中でリフレインする。 2006年、冥王星は惑星から準惑星へと降格された。それは単なる分類の変更ではなく、shimoにとっては「世界から切り離された孤独」の象徴のように思えた。太陽系の家族だと思われていたのに、ある日突然、「お前は違う」と線を引かれる。
shimo自身もまた、アカデミズムの主流から外れつつあった。同期の友人はとっくに企業の研究職に就いたり、海外の有名なプロジェクトに参加したりしている。この薄暗い研究室で、あるかどうかも分からない星の影を追っているのはshimoだけだった。
(クライド・トンボーも、こんな気持ちだったんだろうか)
1930年の今日、2月18日。アメリカの若き天文学者クライド・トンボーは、膨大な写真乾板の中から冥王星を発見した。それは気の遠くなるような「点滅(ブリンク)」の確認作業の末にもたらされた奇跡だった。
shimoはキーボードから手を離した。 眠れない。ここ数ヶ月、まともに眠れた記憶がない。 目を閉じると、星の光ではなく、自分の将来への不安という名のノイズが視界を埋め尽くすのだ。
「帰ろう」
成果のないまま、shimoは重い腰を上げた。 空が白み始めている。今日は水曜日。週の真ん中で、最も中途半端で、最も重力がおかしくなる日。
2. 記憶を縫う針音
天文台を出て、駅へと続く並木道を歩いているときだった。 睡眠不足でふらつく足が、普段は通らない路地へとshimoを誘った。
古いレンガ造りの建物の隙間に、見慣れない看板が出ている。 『枕の仕立て屋 —— 水曜営業』 看板の下には、小さな文字でこう添えられていた。 『安眠の日につき、あなたの忘れた夢、繕(つくろ)います』
まるで童話の導入のような文句だが、極限の不眠状態にあったshimoにとって、それは救いの啓示のように見えた。 重厚な木の扉を押し開ける。
カラン、コロン。 乾いたベルの音が、静寂を破った。
店内は、不思議な匂いがした。古い図書館の紙の匂いと、ラベンダー、そして雨上がりのアスファルトのような匂いが混ざり合っている。壁一面には色とりどりの糸巻きが並び、天井からは無数の布がカーテンのように垂れ下がっていた。
「いらっしゃいませ。眠れぬ迷い子さん」
奥のカウンターから現れたのは、銀髪を緩く束ねた、年齢不詳の男だった。仕立て屋(テーラー)と呼ぶにはあまりにラフな、麻のシャツを身に纏っている。
「……あ、いえ、看板を見て。その、枕を」 shimoがしどろもどろに答えると、男は穏やかに微笑んだ。
「分かりますよ。眼を見ればね。君の瞳の奥には、行き場のない星屑が溜まっている」
男はshimoを手招きし、革張りの椅子に座らせた。 そして、メジャーを取り出すのかと思いきや、取り出したのは一本の「聴診器」のような道具だった。
「頭のサイズは測りません。測るのは、君の記憶の重さと、絡まった思考の結び目です」
男は聴診器の先端を、shimoの胸に当てた。 トクン、トクン。心音が店内に響く。
「……ほう。冷たいですね。極寒の宇宙。誰もいない暗闇。でも、その奥に……熱い塊がある。これは、執着かな? それとも、祈りか」
shimoは思わず息を呑んだ。 「僕は、探しているんです。誰にも見つけられないものを。でも、それが本当にそこにあるのか、自分でも信じられなくなってきて……」
男は聴診器を外し、壁の棚から深い藍色の糸と、銀色の糸を選び出した。
「探求者は皆、孤独です。そして孤独な人間ほど、夢の中で真実に出会う。今日の2月18日は『安眠の日』ですが、本来、眠りとはただの休息ではない。魂のチューニングです」
男はミシンに向かった。 カタカタ、カタカタ。 リズミカルな音が響き始める。それは、トンボーがかつて覗き込んだブリンク・コンパレータ(瞬き比較器)の音にも似ていた。
「この枕には、君の記憶の糸を織り込みます。君が切り捨ててきたノイズ、見落としてきた風景、そして心の底に沈殿させた憧れ。それらを繋ぎ合わせると、君が今、見るべき夢の地図が出来上がる」
男の手捌きは魔法のようだった。藍色の布が、まるで夜空そのものを切り取ったかのように波打つ。 わずか数十分の出来事だっただろうか。あるいは数時間経ったのか。 男は完成した枕をshimoに手渡した。
「さあ、今日はお帰りなさい。そして、この枕で眠りなさい。水曜日の夜は、境界線が曖昧になる。きっと、見つかりますよ」
shimoは代金を払おうとしたが、男は首を振った。 「代金は、君が見つけた『答え』で結構。またいつか、それを聞かせに来てください」
3. 1930年の星空、2026年の孤独
アパートに帰ったshimoは、泥のようにベッドに倒れ込んだ。 仕立て屋から受け取った枕は、驚くほど柔らかく、それでいて確かな弾力でshimoの頭を包み込んだ。 藍色の布地から、微かに星の匂いがした。
意識が、急速に遠のいていく。 いつもならここで不安が襲ってくるはずなのに、今日は違った。 深い、深い、井戸の底へと降りていくような感覚。その底には、水ではなく、光が満ちていた。
——夢を見た。
shimoは、自分の身体が透き通っているのを感じた。 場所は、アメリカのアリゾナ州、ローウェル天文台。 ただし、時代が違う。空気が古い。壁にかかったカレンダーは「1930年」を示している。
寒風吹きすさぶドームの中、ひとりの青年が顕微鏡のような装置を覗き込んでいる。 クライド・トンボーだ。まだ24歳。今のshimoよりも若い。
彼は何千、何万という星の点を、一枚一枚、比較していた。 写真乾板Aと、写真乾板B。数日の間隔を空けて撮影された二枚の夜空。 それを交互に切り替える。 パチッ、パチッ。 星々は動かない。だが、惑星ならば動く。
shimoは、トンボーの背中に重なるようにして、そのレンズを覗き込んだ。 そこにあるのは、圧倒的な「虚無」と「徒労」の予感だ。 (もし、何もなかったら?) (もし、僕の人生が、ただの無駄な時間の集積だとしたら?)
トンボーの心の中にある恐怖が、shimoの心に流れ込んでくる。 彼は農家の出身で、正規の大学教育を受けずに天文学の世界へ飛び込んだ。エリートたちからの冷ややかな視線。期待されていないという疎外感。 それは、shimoが感じている現代の孤独と、痛いほどに同期していた。
だが、トンボーは止めなかった。 「いるんだ」 彼が呟く。 「誰が見ていなくても、そこにある。僕が見つけなければ、あの星は永遠に闇の中だ」
その執念が、shimoの胸を熱く焦がした。 主流じゃなくていい。中心じゃなくていい。 太陽の光が届かないような、凍てついた最果て。そこにこそ、僕の居場所がある。
パチッ。 視界の端で、何かが動いた。
双子座のデルタ星の近く。 芥子粒よりも小さな光の点が、乾板を切り替えるたびに、左右に揺れた。
「……あった」
トンボーの歓喜が、爆発するようにshimoを包み込む。 その瞬間、夢の景色が変わった。 1930年の天文台から、2026年のshimoの研究室へ。
モニターの中に流れる、あの白いノイズの川。 今まで「ただの背景雑音」として捨てていたデータ。 だが、仕立て屋の枕が見せる夢の中で、そのノイズが歌い始めた。 それは雑音ではない。パターンだ。 極めて微弱な、しかし周期的な変動。
「そうか……」
夢の中でshimoは理解した。 僕は「星」そのものを探そうとしていた。でも、あんな遠くにある冷たい星は、自ら光らない。 見るべきは、星そのものではなく、星が背景の光を「隠す」瞬間。 掩蔽(えんぺい)だ。
冥王星が発見された日。 その発見は、中心から外れた場所を凝視し続けた者にしか訪れない、宇宙からのウィンクだった。
「僕も、見ていたんだ。ずっと」
4. 2月19日の夜明け
shimoが目を覚ましたとき、時計の針は朝の7時を回っていた。 10時間以上、一度も起きずに眠り続けたことになる。 こんなに深く眠れたのは、数年ぶりのことだった。
身体が軽い。頭の中の霧が完全に晴れている。 shimoは跳ね起きると、枕を抱きしめる暇もなく、ノートPCを開いた。
昨日の解析データ。 夢の記憶を頼りに、フィルタリングのパラメータを書き換える。 「光」を探すのではなく、「影」を探すアルゴリズムへ。 ノイズだと思って切り捨てていた微細な光度変化のログを、再構築する。
エンターキーを叩く。
画面上のグラフが、波を描いた。 偶然のノイズでは説明がつかない、明確な周期的減光。 座標は、海王星の軌道の遥か外側。
「……おはよう」
shimoは、画面の中のまだ名もなき揺らぎに向かって挨拶をした。 涙が滲んで、画面が歪む。 それは、96年前のトンボーが感じた震えと同じ周波数で、shimoの魂を揺さぶっていた。
窓の外では、新しい朝の光が東京の街を照らし始めていた。 冥王星はもう惑星ではないかもしれない。 shimoもまた、天文学会のスターにはなれないかもしれない。 けれど、この広い宇宙の片隅で、誰にも知られていない「真実」と二人きりになれる瞬間があるならば、それはどんな名誉よりも尊い。
shimoは携帯を取り出し、カレンダーを見た。 2月19日。 安眠の日は過ぎた。世界はまた喧騒を取り戻す。
だが、もう大丈夫だ。 彼には、帰るべき暗闇と、そこで待っている微かな光がある。 そして、水曜日にだけ開く仕立て屋への、最高の支払い代わりとなる「土産話」ができたのだから。
shimoは熱いコーヒーを淹れると、冷え切った指先をカップで温めた。 その顔には、長い夜を越えた者だけが浮かべることのできる、静かな笑みがあった。
あとがき:星と眠りの交差点で
この記事は、冥王星発見の日(1930年2月18日)と、安眠の日(2月18日)という二つの記念日に寄せて書かれたショートストーリーです。
私たちは往々にして、社会の「中心」にいないことに不安を感じます。SNSのタイムライン、都会の真ん中、トレンドの最前線。そこから外れることを恐れ、眠れない夜を過ごすこともあります。
しかし、かつて冥王星を発見したクライド・トンボーは、誰からも注目されない暗闇の中で、歴史を変える発見をしました。準惑星になろうとも、その星が宇宙に存在する事実は変わりません。
主人公のshimo(シモ)もまた、現代社会の「周辺」で生きる若者です。彼が水曜日の枕屋で得たものは、魔法ではなく「視点の転換」でした。 孤独は、寂しいものではなく、微かな光を見つけるための「暗室」なのかもしれません。
今夜、あなたが眠りにつくとき、その暗闇が優しいものでありますように。 そして、あなたの見ている夢が、いつか誰にも見つけられない「星」へと繋がっていますように。
