錆びついたコンパスと、2月15日の逃避行(架空のショートストーリー)
はじめに:沈殿する日曜日と、語呂合わせの呪文
令和8年2月15日。日曜日。 スマートフォンのロック画面に浮かぶ日付を見て、shimoは重たい溜息を吐いた。
「2(つ)、1(ぎ)、5(こう)。次に行こう、か……」
誰が定めたのかは知らないが、世間では今日は「次に行こうの日」らしい。SNSのタイムラインには、新しい趣味を始めただの、転職を決意しただの、前向きなハッシュタグと共に煌びやかな決意表明が踊っている。 shimoにとって、その明るさは毒だった。 34歳。地方都市で実家の工務店「志本建業」を継ぐために戻ってきて3年。一級建築士の資格を持ち、東京の設計事務所でそれなりのキャリアを積んだ自負は、この3年間でカビの生えた古木のように湿気てしまっていた。
「次」なんてどこにある。あるのは、終わらない「続き」と、変えられない「過去」だけじゃないか。
寝癖のついた頭を乱暴にかきむしり、shimoは階段を降りた。この時すでに、彼の中の何かが限界水位を超えようとしていたことに、彼自身も気づいてはいなかった。
第1章:起爆スイッチは「味噌汁」と「図面」
逃げ場のない朝食
食卓には、父と母、そしてshimoの妻である沙織、5歳になる娘の結衣が座っていた。 「おはよう」 shimoの低い声に、父の厳格なバリトンが被さる。 「遅いぞ。現場は休みでも、職人の朝は早いもんじゃ」 「今日は日曜だろ、親父」 「気持ちの話をしとるんだ。そんなたるんだ顔で、来週のプレゼンは大丈夫なのか」
父が言っているのは、地元の公民館のリノベーション案件だ。shimoは、既存の梁を活かしつつ、大胆にガラスを取り入れたモダンな設計を提案していた。しかし、父は「地元の年寄りにはわからん」と、ことごとく修正を求めてきていた。
「図面、見たぞ」父が味噌汁をすすりながら言った。「ガラスの面積を減らせ。あと、あの入口の曲線のデザイン、あれじゃあ施工の手間がかかりすぎる。直角にしろ」 「あれが今回のコンセプトなんだよ。光を取り込んで、地域に開かれた場所にするための」 「光なんざ、窓を開ければ入る。予算と工期を考えろ。お前はまだ東京の気取った事務所にいるつもりか」
カチン、とshimoの中で音がした。 それは3年間、何度も鳴ってきた音だったが、今日は響き方が違った。「次に行こう」という世間の浮かれた空気と、目の前の変わらない現実の落差が、火花を大きくしたのだ。
決定的な亀裂
「気取ってるわけじゃない。これからの時代に必要なデザインを提案してるんだ」 「その『これからの時代』ってのが、この町には合わんと言っとるんだ! お前の自己満足で会社を潰す気か!」 父が箸を叩きつけた拍子に、味噌汁の椀が揺れ、しぶきがshimoの着ていたパーカーに飛んだ。
「……あーあ」 shimoは濡れた袖を見つめた。熱くもなかった。ただ、冷めた。 「もういいよ」 「何がだ」 「全部だよ。直角にすりゃいいんだろ。豆腐みたいな箱を作れば満足なんだろ!」 「なんだその口の利き方は!」
shimoは椅子を蹴るようにして立ち上がった。 「shimoくん!」沙織が不安そうに声を上げる。 「ごめん、沙織。ちょっと出てくる」 「どこへ行くんだ、話は終わっとらんぞ!」父の怒声を背中に受けながら、shimoは玄関に走った。 車のキーを掴む。足元にあったスニーカーを踵を踏んだまま履く。 「次に行こう」なんて言葉、クソ食らえだ。 俺はいま、どこへも行けない行き止まりにいるんだから。
第2章:国道4号線、あてどないロードムービー
孤独なコックピット
shimoの愛車は、仕事でも使っているライトバンの旧型ボルボだ。走行距離は18万キロを超え、エンジンの振動がシート越しに背骨を震わせる。 家を飛び出して30分。shimoはあてもなく国道を北へ走らせていた。 日曜の朝の国道は、どこか間の抜けた平和な空気に満ちている。家族連れのミニバン、ツーリングのバイク集団、洗車したての軽トラ。 その流れの中で、shimoだけが異物のように眉間に皺を寄せてハンドルを握っていた。
カーラジオからは、ローカル局のDJが能天気な声で喋っている。 『今日は2月15日! 次に行こうの日ですね〜。リクエスト曲は、新しい一歩を踏み出すあなたへ……』 shimoは舌打ちをしてラジオを切った。 車内が静寂とエンジン音だけに支配される。
(俺は間違っていないはずだ) 頭の中で、父への反論を繰り返す。 (古い慣習を守るだけじゃ、ジリ貧だ。新しい風を入れなきゃ、志本建業に未来はない。親父はそれが分かっていない) だが、思考のループの果てに、別の声も聞こえてくる。 (……でも、実際に施工するのは親父や古株の職人たちだ。彼らが納得しない図面を描いて、何の意味がある?)
shimoはアクセルを緩めた。怒りのアドレナリンが引いていくにつれ、自己嫌悪が潮のように満ちてくる。 34歳にもなって、親と喧嘩して家出。 「ダサすぎるだろ、俺……」 ハンドルに額を押し付けそうになった時、助手席のスマホが震えた。 画面には『沙織』の文字。
助手席の”声”
無視しようか迷ったが、路肩のパーキングスペースに車を停めて通話ボタンを押した。 「……もしもし」 『あ、出た。shimoくん、今どこ?』 沙織の声は、拍子抜けするほど普段通りだった。怒ってもいないし、焦ってもいない。 「……北の方。国道を適当に」 『そう。お義父さんね、あの後、血圧上がっちゃって大変だったのよ。「あいつの図面を全部シュレッダーにかけろ!」って叫んでたけど、今はお薬飲んで寝ちゃった』 「……ごめん」 『謝るのは帰ってからにして。で、いつ帰るの?』 「わかんない。頭冷えるまで、帰りたくない」 shimoは正直に言った。
『そっか。まあ、今日は日曜日だしね。いいんじゃない? たまには一人でドライブも』 沙織の言葉は、絡まった糸を一本ずつ解くように優しかった。 『ただね、shimoくん。結衣が言ってたよ。「パパ、新しいクレヨン買いに行く約束だったのに」って』 「あ……」 忘れていた。今日は午後から、娘と文房具屋に行く約束をしていたのだ。 『だから、夜ご飯までには戻ってきてね。あと、お義父さんとのことは……まあ、shimoくんが一番わかってると思うけど、お義父さんも怖いのよ。』 「怖い?」 『自分が守ってきたものが、shimoくんの新しいやり方に塗り替えられちゃうのがね。寂しいのと怖いのと、ごちゃ混ぜなのよ。男の人って面倒くさいわね』 沙織はクスクスと笑った。 『じゃあ、気をつけて。「次」が見つかったら教えてね』 プツン、と通話が切れた。
shimoはスマホを握りしめたまま、フロントガラス越しの冬空を見上げた。 鉛色の雲の隙間から、薄い日差しが差し込んでいる。 「……敵わねえな」 エンジンをかけ直す。行き先はまだ決まっていなかったが、心のコンパスがわずかに針を動かした気がした。
第3章:錆びた鉄の森で出会った「錬金術師」
予期せぬ迂回
国道から県道へ、そして海沿いの旧道へとハンドルを切った。 海が見たかったわけではない。ただ、直線の国道に飽きただけだ。 ガードレール越しに見える冬の日本海は、荒々しく、白波が牙のように岩場を噛んでいる。 ふと、道路脇に奇妙な看板が立っているのが目に入った。
『鉄の墓場、あるいは再生の庭 →』
手書きの、しかも錆びた鉄板にペンキで殴り書きされたような看板。 普段のshimoなら絶対に見過ごすような代物だ。しかし、今日の彼は「次」を探していた。 (鉄の墓場……?) shimoはウインカーを出し、砂利道へと入っていった。
スクラップ・ガーデン
ガタガタと車体を揺らしながら進むと、開けた場所に出た。 そこは、廃工場のような敷地だった。だが、ただの廃墟ではない。 高く積み上げられたスクラップの山。廃車のドア、錆びた歯車、曲がった鉄骨。それらが、まるで巨大なオブジェのように、ある種の秩序を持って配置されている。 「なんだここは……」 車を降りると、潮風と共に鉄の匂いが鼻をついた。 キィン、キィン、と金属を叩く音が聞こえる。音のする方へ歩いていくと、巨大な鉄のアーチの下で、溶接マスクを被った小柄な人物が火花を散らしていた。
「あの、すみません」 shimoが声をかけると、作業の手が止まった。マスクが外される。 現れたのは、白髪の混じったボサボサ頭の老人だった。顔中が煤だらけで、瞳だけがギョロリと光っている。 「ん? お客さんか? いや、今日はギャラリーは休みだぞ」 「いえ、看板を見て気になって。ここは?」 「ここは俺のアトリエだ。ゴミ捨て場とも言うがな」 老人はニカッと笑うと、汚れた軍手を外した。 「俺はゲン。ここで死んだ鉄屑に、もう一度命を吹き込む仕事をしてる」
否定と肯定の狭間で
ゲンと名乗る老人は、shimoを敷地内へ案内してくれた。 近くで見ると、スクラップの山だと思っていたものは、すべてアート作品だった。 廃車のボンネットを繋ぎ合わせて作った巨大なクジラ。五寸釘を無数に溶接して作られたライオン。 そして、今作っている最中だという巨大なアーチ。 「これは?」shimoが尋ねる。 「『次の扉』だ」 「え?」 shimoは心臓が跳ねるのを感じた。 「廃材になった鉄骨、役目を終えた農機具、壊れた遊具。それらを組み合わせて、新しい世界への入り口を作るんだ。面白いだろう?」 ゲンは愛おしそうに錆びた鉄骨を撫でた。
「でも、これらは一度捨てられたものですよね」shimoは思わず口にした。「役目を終えた、古いものだ。新しいものを作るなら、新しい素材を使ったほうが……」 それは、父に対して抱いていた感情そのものだった。 ゲンはshimoをじっと見た。 「兄ちゃん、何か作る仕事をしてるな?」 「……建築、です。設計を」 「なるほどな。だから『素材』なんて言葉が出る」 ゲンは足元に転がっていたひしゃげたスパナを拾い上げた。 「いいか兄ちゃん。こいつは確かに古い。新品の輝きはない。だがな、こいつには『記憶』がある。誰かが握りしめ、力を込め、何かを直そうとした記憶だ。その記憶を含めて形にするから、深みが出るんだ」
ゲンはスパナをshimoに手渡した。ずっしりと重い。 「『次に行く』ってのは、過去を切り捨てて更地にすることじゃねえ。過去の残骸を積み上げて、その上に立って遠くを見るってことだ。親父さんの時代も、お前の時代も、全部溶接して繋げちまえばいい。継ぎ目が汚くても、それが『味』になる」
ガツン、と頭を殴られたような気がした。 過去を切り捨てることだけが、新しさだと思っていた。 直角のモダンなデザインだけが正解で、父の泥臭い経験はノイズだと思っていた。 だが、この『次の扉』はどうだ。 錆びた鉄と、磨かれたステンレスが混在し、歪でありながら圧倒的な存在感を放っている。 「……全部、溶接して繋げる」 shimoは呟いた。
「ま、俺はただのゴミ拾いだがな」ゲンは笑って、再び溶接マスクを被った。「さて、日が暮れる。帰る場所があるなら、帰りな。この扉はまだ完成しねえから、くぐらせてはやれねえが」 「いえ……もう、くぐった気がします」 shimoは深々と頭を下げた。「ありがとうございました」
第4章:帰路、そして設計図の書き直し
夕暮れのコクピット
帰りの車中、shimoの頭の中はクリアだった。 行きに聞いていたラジオはもう切ってある。代わりに、頭の中で新しい図面が猛スピードで描かれていた。 公民館のリノベーション。 直角のモダンなデザインにこだわっていた自分。曲線を強要する父。 (どっちも採用すればいい) 既存の古めかしい梁を隠すのではなく、あえて剥き出しにして、その荒々しい木目と対比させるように、最新のガラス素材を配置する。 父がこだわっていた曲線の入り口は、地元の廃材――例えば古民家の瓦や、海岸で拾った流木を組み合わせて、アプローチの壁面に使うのはどうだ? それは「古い」けれど、間違いなく「新しい」景色になるはずだ。
「なんだ、簡単なことじゃないか」 shimoはハンドルを握りながら苦笑した。 対立構造でしか物を見ていなかった。 父の時代(過去)と自分の時代(未来)を、どう「溶接」するか。それが自分の役割だったのだ。
17:30、帰還
家に着いた頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。 玄関を開けると、カレーの匂いが漂ってきた。 「パパ!」 結衣がドタドタと走ってくる。 「遅い! クレヨン!」 「ごめんごめん、結衣。明日、保育園の帰りに一番いいやつ買いに行こう。24色のやつ」 「ほんと!? やったー!」
リビングに入ると、父がソファで背中を向けてテレビを見ていた。背中が少し小さく見えた。 「……ただいま」 shimoが声をかけると、父は振り返らずに言った。 「……風呂、沸いてるぞ」 それが父なりの精一杯の和解の言葉だと、今のshimoには分かった。
「親父、あとでちょっと時間くれ」 shimoは言った。 「図面、書き直してくる。親父の言ってた曲線、あれ活かしたいんだ。でも、ただの曲線じゃない。俺たちの会社にしかできないやり方でやりたい」 父がゆっくりと振り返り、shimoを見た。 その目には、朝のような敵意はなく、どこか探るような、しかし期待を含んだ光があった。 「……ふん。口だけは達者になったな。見せてもらおうか」
shimoは二階の自分の部屋へ駆け上がった。 デスクの上のPCを開く。 カレンダーの日付はまだ「2月15日」だ。 「次に行こう」 shimoは小さく呟き、マウスを握った。 画面の中の線が、生き生きと動き始めた。
あとがき:2月15日の効能
人生には時折、強制的な「換気」が必要な日がある。 shimoにとってのそれが、たまたま今日だったというだけのことだ。 もしあなたが今、何かに詰まっているなら、カレンダーを見てほしい。 今日は2月15日。 錆びついた扉を蹴破るには、悪くない日和かもしれない。
