垂直の記憶、水平の再生:1984年から来た旅人(架空のショートストーリー)
第一章:無彩色のルーティン
令和8年2月12日、午前7時15分。 東京郊外、私鉄の駅へと向かう道すがら、シモ(52歳)はスマートウォッチの通知を無意識にタップして消した。
画面には「歩数目標まであと8,000歩」という文字。昨夜、深夜まで及んだリモート会議の疲労が、鉛のようにふくらはぎに溜まっている。シモ——本名、下村健一——は、中堅IT企業の管理職として、日々「効率」と「リスクヘッジ」という名の山を登っていた。
かつての彼は、もっと別の山を見ていたはずだった。 1984年。小学4年生だったシモの部屋には、ボロボロになるまで読み返した『青春を山に賭けて』があった。北極点を犬ぞりで走破し、エベレストに立ち、五大陸最高峰を制覇した男。植村直己。 「失敗をおそれるよりも、何もしないことをおそれる」 その言葉を胸に、少年時代のシモは、裏山の茂みをアマゾンに見立て、壊れた自転車を修理して隣町まで「遠征」した。あの頃、世界は未知に満ちていた。
だが、今の世界はどうだ。 スマホを開けば、エベレストの山頂からのライブ映像すら見ることができる。Google Earthは地球上のあらゆる隙間を塗りつぶし、AIが今日の運勢から最適な昼食まで提案してくれる。 「未知なんて、もうこの世には残っていないんだ」 シモは乾いた溜息を吐き、満員電車の列に並んだ。
第二章:氷の匂いのする男
その日の午後は、異様に冷え込んだ。 営業先からの帰り道、シモは何に導かれたのか、板橋区にある「植村冒険館」へと足を向けていた。2月12日。植村氏がデナリ(マッキンリー)で行方不明になった、43歳の誕生日の命日だ。
公園のベンチに座り、コンビニの温かいコーヒーを啜っていた時だった。 背後から、ザリ、ザリと、雪を踏みしめるような重い足音が聞こえた。今日の都心に雪は降っていないはずなのに。
「……随分と、騒がしい街になりましたね」
低く、それでいて陽だまりのような温かさを含んだ声。 シモが振り返ると、そこにその男は立っていた。
時代遅れの分厚いダウンパーカ。汚れの目立つオーバーパンツ。そして、何よりも特徴的なのは、日焼けで赤黒く焼けた肌と、雪の反射で細められた、少年のように澄んだ瞳だった。 「あ……」 言葉が出なかった。目の前の男は、42年前のニュース映像で見た「彼」そのものだった。いや、映像よりもずっと生々しい。体からは、冷たい風の匂いと、少しの灯油、そして圧倒的な「野生」の匂いがした。
「あなたは……植村、さん……?」 男は少し困ったように眉を下げ、照れくさそうに笑った。その笑顔は、かつてシモが教科書や写真集で何度も見た、あの人なつっこい笑顔だった。 「はい。植村です。デナリの頂上で少し、道に迷ってしまったようでして。気がついたら、なんだか不思議な場所に立っていました」
第三章:2026年という「異境」
シモは震える手で、目の前の男を近くの喫茶店へと促した。混乱していたが、それ以上に、心臓が激しくノックを繰り返していた。
「今は、令和8年です。1984年から42年が経ちました」 シモの説明を、植村氏は身を乗り出して聞いていた。 「42年! それは驚いた。私が43歳ですから……計算が合いませんね。でも、この不思議な板(スマートフォン)で、世界中の人と話ができるというのは、まるで魔法だ」
シモは、現代の便利さを一つずつ教えた。 GPSがあれば現在地を見失うことはないこと。翻訳機があれば言葉の壁も越えられること。そして、植村氏が挑んだ北極も南極も、今では観光客が行ける場所になったこと。
「植村さん。今の時代、もう冒険なんて必要ないのかもしれません。どこへ行くにも、正解が最初からわかっているんです」 シモは自嘲気味に言った。 「僕もそうです。毎日、失敗しないように、昨日と同じ道を歩いています。それでいいと思っている。でも、本当は……息苦しいんです」
植村氏は、テーブルの上に置かれた最新型のiPhoneをじっと見つめていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「シモさん。確かに便利になりましたね。私が犬たちと何ヶ月もかけて移動した距離を、数時間で移動できる。それは素晴らしいことです。でも……」 植村氏は、自分のゴツゴツとした、傷だらけの手を見つめた。 「冒険というのは、場所を探すことじゃないと思うんです。『自分の心の震え』を探すことなんです」
「心の、震え?」
「ええ。北極点に着いた時よりも、キャンプで一人、凍えた指でストーブに火を灯す瞬間のほうが、私は生を実感しました。現代の皆さんは、外側の地図は完璧に持っているけれど、自分の内側の地図を白紙にしたまま、立ち止まっているように見えます」
第四章:垂直の視線
「シモさん。あなたは今日、何かに驚きましたか?」 植村氏の問いに、シモは詰まった。 「……いえ。予定通りに仕事をこなし、予定通りの電車に乗りました」
「もったいない」 植村氏は笑った。 「私は今、この街を歩いているだけで、心臓がバクバクしていますよ。この高い建物、空を飛ぶ鉄の塊、そして何より、こんなにたくさんの人が、それぞれ違う人生を生きている。これは、デナリの山頂に立つのと同じくらいの『未知』です」
植村氏は立ち上がり、窓の外を見つめた。 「私は、また戻らなければならないようです。雪の匂いが強くなってきました」 窓の外には、いつの間にか白い霧が立ち込めていた。
「植村さん! 待ってください!」 シモは慌てて立ち上がった。 「僕は……僕は、どうすればいい? あなたのように強くはなれない。今さら仕事を辞めて冒険家になるなんて、そんな勇気はありません」
植村氏はドアに手をかけ、振り返った。 「冒険に、大きさなんて関係ありません。昨日と違う靴を履く。知らない駅で降りてみる。自分には無理だと思っていた誰かに、声をかけてみる。その一歩を踏み出す時、心の中に『未知の風』が吹くはずです。シモさん、あなたはまだ、どこへだって行ける。43歳の私に言わせれば、52歳なんて、まだ二度目の青春の入り口ですよ」
そう言って、植村氏は最後に一度だけ、あの太陽のような笑顔を見せた。 「さあ、私も行きます。誕生日のケーキを、まだ食べていないので」
霧の中に、男の影が消えていく。 後には、微かな氷の匂いと、飲みかけの冷めたコーヒーだけが残された。
第五章:未知なる日常へ
翌朝、令和8年2月13日。 シモはいつもと同じ時間に目を覚ました。だが、体感する空気の密度が違っていた。
彼はクローゼットの奥から、何年も放置していた古いバックパックを引っ張り出した。中には、埃を被ったトレッキングシューズが入っている。 「まだ、履けるな」
駅へ向かう道。彼はいつも通りの最短ルートを外れた。 一駅分、歩いてみることにしたのだ。 地図は見ない。迷ったら、誰かに聞けばいい。あるいは、迷ったまま歩き続けてもいい。
「歩数目標まであと……」 スマートウォッチが振動した。シモはそれを迷わず外し、ポケットに突っ込んだ。 自分の歩幅は、機械に決められるものではない。
冷たい風が頬を打つ。その冷たさが、心地よかった。 彼は思い出した。小学4年生の冬、雪の中をどこまでも走っていけると思っていた、あの根拠のない自信を。 世界はまだ、こんなにも広い。
シモは、路地裏で見つけた小さな古本屋の前に立ち止まった。 軒先に並んだ雑多な本の中に、一冊、背表紙が焼けた古い文庫本が見えた。 彼はそれを手に取り、店主に声をかけた。 「すみません、これ、ください」
それは、あの日から一度も開いていなかった、一人の男の物語だった。
結び:冒険は終わらない
シモの心の中には今、垂直にそびえ立つ一塊の氷山がある。 それは登りきるためのものではなく、日々、自分を奮い立たせるための指標だ。 彼は歩き出す。都会の喧騒の中へ、未知なる「明日」という名の荒野へ。
空を見上げると、冬の澄んだ青空が広がっていた。 どこか遠くで、犬ぞりを駆る声と、雪を噛む音が聞こえたような気がした。
(完)
