令和8年2月10日 今日も平凡な一日にありがとう!

 

磨き上げた鏡の向こうに ―― 2026年2月10日の黙示録 ――(架空のショートストーリー)


第一章:塩素の香りと、消えたプライド

午前6時15分。地下鉄大手町駅の通路は、まだ深夜の冷気が居座っている。 shimoは、以前ならこの時間にタクシーで朝帰りをしていたか、あるいは重い足取りで出社していた。しかし今の彼は、青い作業着に身を包み、腰にスプレーボトルをぶら下げている。

「……よし」

独り言は、マスクの中で湿って消えた。 彼が手にしているのは、最新式の除菌モップではない。あえて使い古された、手に馴染むブラシだ。駅のトイレ掃除。それが、かつて年収1200万円を稼ぎ出し、戦略的思考を武器にしていたshimoの「現在地」だった。

1年前、彼は自信満々に会社を辞めた。さらなる高み、外資系コンサルへの転職を狙って。しかし、待っていたのは「市場価値の暴落」という現実だった。2025年後半から加速したAIによるホワイトカラー業務の代替は、彼のような「調整役」の中高年を真っ先に飲み込んだ。 「君のスキルは、もうアルゴリズムが1秒で片付けるんだよ」 最後に受けた面接官の言葉が、今も耳の奥で耳鳴りのように響いている。

結局、路頭に迷いかけた彼を拾ったのは、誰もが見向きもしない「現場」の仕事だった。


第二章:令和8年2月10日、世界が変わった

その衝撃は、休憩室の古いテレビから流れてきた。 2026年2月10日。 この日は後に、経済史において「聖域の崩壊日」と呼ばれることになる。

『国内最大手・NIPPONホールディングス、管理職8割の削減とAI完全移行を発表』

ニュースキャスターの声が震えていた。日本を代表する巨大企業が、ついに「人間によるマネジメント」を放棄したのだ。それだけではない。同日、政府は「デジタル労働基本法」の改正を閣議決定し、事務職の最低賃金の大幅な見直しを事実上容認した。

「嘘だろ……」

shimoは、手に持っていた紙コップのコーヒーを落としそうになった。 かつて彼が必死にしがみつこうとした「椅子」が、音を立てて崩れていく。画面の中では、昨日までエリートと呼ばれていた人々が、自身のIDカードが使えなくなったオフィスの前で呆然と立ち尽くしている。

かつての同僚たちの顔が浮かぶ。彼らが誇っていた戦略も、人脈も、洗練されたプレゼン資料も、2月10日の冷徹なシステム更新によって「不要なデータ」としてゴミ箱に捨てられたのだ。

「俺が負けたのは、あそこにいられなくなったことじゃなかったのか」

強烈な衝撃がshimoを襲った。もし1年前、転職に成功していたら。今頃、自分もあのオフィスの前で、行き場を失い、真っ白な顔をして立っていたはずだ。


第三章:鏡の中に映る「価値」

午後のシフト。shimoは、いつも以上に丁寧に洗面台の鏡を磨いていた。 ニュースの衝撃は冷めない。駅を利用するビジネスマンたちの顔も、どこか引きつっている。スマホの画面を凝視し、自分の雇用が明日もあるのかを確認するかのように、足早に通り過ぎていく。

その時だった。

「……綺麗だな」

背後で声がした。振り返ると、一人の老紳士が洗面台の前に立っていた。 仕立ての良いスーツを着ているが、その表情には疲れが滲んでいる。老紳士は、shimoが磨き上げた鏡に映る自分の顔をじっと見つめ、それからshimoに視線を向けた。

「最近、どこに行っても『機械の目』ばかりでね。でも、この鏡の輝きは違う。隅の方まで、誰かの意志が宿っているような気がするんだ」

shimoは言葉に詰まった。 「……ただの、掃除ですから」

「いや、違うよ。私はね、今日、長年勤めた会社を辞めてきた。世界は効率化の化け物に飲み込まれようとしている。だがね、君が今ここでやったことは、アルゴリズムには計算できない『祈り』のようなものだ。人が使う場所を、人が心地よく整える。それは、どれだけ時代が変わっても消えない、本当の仕事だ」

老紳士は、小さく会釈をして去っていった。

shimoは、自分が磨いた鏡を見た。 そこには、かつての傲慢なエリートの影はなかった。あるのは、手にマメを作り、塩素の匂いを纏いながらも、真っ直ぐに自分を見つめる一人の男の顔だった。


第四章:日々の教訓 ―― 2月11日への希望

休憩時間が終わり、shimoは再びブラシを取った。 2026年2月10日。この日、世界は「人間の管理」を捨てたかもしれない。しかし、shimoは学んだ。

「奪われない仕事」とは、立場や役職のことではない。 目の前の現実を、どれだけ自分の手で「手触りのあるもの」に変えられるか。その誠実さのことだ。

落胆は、希望の裏返しだった。 かつての彼は、数字という虚像を磨いていた。しかし今は、誰かが使う便器を、誰かが顔を映す鏡を、本気で磨いている。その手応えだけは、どんな高度なAIも、どんな大企業のリストラも奪うことはできない。

駅の喧騒が、どこか心地よいリズムに聞こえ始める。 「お疲れ様です」 通りがかりの若い学生が、ふと声をかけてくれた。 「ありがとうございます」 shimoは、心の底から自然に笑って答えた。

明日も、世界は変わり続けるだろう。 ニュースはさらに残酷な現実を告げるかもしれない。 けれど、shimoの朝は早い。彼は知っている。自分が鏡を磨くたび、この駅を利用する誰かの心が、ほんの少しだけ明るくなることを。そしてその光が、巡り巡って自分自身の人生を照らし出すことを。

35歳の時、彼は「何者か」になろうとして焦っていた。 45歳の今、彼は「自分」であることを受け入れ、誇りを持っている。

令和8年2月10日。 それはshimoにとって、敗北の記録ではなく、真の意味で「働くことの尊厳」に出会った、再生の記念日となった。