やたらと口数が多い人に贈ることわざ「空き樽は音が高い」

「空き樽は音が高い」

樽をたたくと中身が詰まっていれば重い音が響くけど、中身が空に近いほど高い音がする。

このことから中身のない空疎な人ほどよくしゃべって周囲をうるさがらせるという意味のことわざ。

自分自身にも思い当たる節がある。

自分の考えに自信がなかったり、人からの受け売りを自分のこととして伝えようとしたりするから、どんどん言葉に言葉を重ねてしまうことになる。

気が付けば、相手はほとんどしゃべることがなく話しているのは自分ばかり。

営業やセールスを始めたころに新人がまさにそんな感じだろう。

でも、それに気付いて自分の浅い考えを深めようとしたり、知識の幅を深めたり、周辺知識を身に付けたりすることで少しずつ補っていくことができる。

さらに、話している相手の立場にたって、もしも自分が相手となって自分の話を聞いたらどんな感覚になるのかを考えることによってもまた変化が起きる。

それを重ねていくと、相手の話を引き出して聞けるようになり、自分がしゃべるのは必要最低限に抑えることができるようになる。

自分という樽から出ている音は軽いなと気付くことが大切。誰だって若いときは音が軽いのは同じこと。

それ気付ける人と気付けない人の差が大きい。

「空き樽は音が高い」

悪事に手を染めそうになったときに思い出すことわざ「悪木盗泉」

「悪木盗泉」(あくぼくとうせん)

どれほど困窮しても、決して悪事を働いてはいけないという戒めのことわざ。

そして、悪事に近づいて人から疑われるようなことは避けるように促す意味もある。

質の悪い木の陰で体を休めたり、悪泉の水を飲むだけで体が汚れるということからきている言葉らしい。

私たちは生活をしていれば、物事がスムーズに進むことよりも上手く運ばないことの方が多いと感じてしまう。

そんなときに他人がちょっとズルいことをやっていたりすることを見かけるとついつい自分も真似しようかなと魔が差す気持ちも湧いてくる。

しかし、一時的にズルをして何か上手くいったとしてもそれを継続できたりするとは限らない。

そして、一度ズルをしてしまうとそれが習慣になり、ズルいことをする自分の気持ちも麻痺してくるようになる。

そうなると今度はもっともっと大胆になってしまったり、悪事の規模が大きくなってしまうかもしれない。

あとは、そんな人が近くにいたら自分も疑われかねないから決して近づかずに人間関係に適切な距離を置くことが大切だろう。

人間の心というものはとても弱いものだから。

「悪木盗泉」(あくぼくとうせん)

社会の変化に対応できない人に贈ることわざ「明るけりゃ月夜だと思う」

「明るけりゃ月夜だと思う」

夜に外が明るければすべて月夜だと思い込んでしまうことから、考えが単純で物事を知らないことを意味することわざ。

そんなのんきな人を嘲笑する意味もある。

世の中は、今日何事もなくても明日は何か大きなことが起きるかもしれない。

今日は売り上げがあがっても明日にはその売り上げがなくなるかもしれない。もちろん、もっと売り上げが上がるかもしれない。

どんなことがあっても変化に対応できるように、常に視野を広げて謙虚に学ぶ姿勢が大切。

外が明るいから月夜だと思っていると突然真っ暗闇になるかもしれないが、その用心や準備、心構えができていれば対応できる。

そして、用心や準備、心構えができている人とできていない人の差は大きい。

それこそ、このことわざが伝えたいことだと思う。

楽しいときには楽しむことも大切だし、しっかりと物事を考える時間や機会も同じように大切。

自分の身に起きることを通して、世の中の変化や移り変わりを知り、これからへ向けた準備や心構えもしっかりと考えよう!

「明るけりゃ月夜だと思う」

良い人材を採用したい人に贈る四字熟語「握髪吐哺」

「握髪吐哺」(あくはつとほ)

優れた人材を求めるのに熱心なことや、才能ある人材を確保しようと熱心になることを意味する。

この四字熟語の語源は中国の将軍が来客があると入浴中なら洗いかけの髪を握ったまま(握髪)でも対応したり、食事中なら食べ物を吐き出して(吐哺)でもすぐに出迎えたという故事に由来する。

そのくらい来客には熱心に対応したり、自分から熱心さを伝えなけれが良い人材に縁ができないのは古代中国の時代から変わらない。

良い人材を採用したいのなら、握髪吐哺の気持ちで丁寧に人との縁を大切にして、腰を低く人に接する必要がある。

そのくらいできない人が腕組みをして待っていても人材は向こうからやってこない。

その昔、三国志の時代に蜀の劉備玄徳は諸葛孔明に何度も断られながらも採用したいと訪ね続けた結果、諸葛孔明が「三顧の礼」という気持ちで折れたという史事もある。

良い人材を採用できるかできないかは探す方の人徳と努力によるところが大きい。

「良い人材がいない」とボヤく暇があったら自分から人に会いに行こう!

「握髪吐哺」

今日のことわざ「挨拶は時の氏神」

「挨拶は時の氏神」

このことわざの「挨拶」は仲裁のことを意味する。

誰かと喧嘩している場合は口論などを仲裁してくれる人は、ありがたい氏神様と同じであるという意味。

だから仲裁人が取り計らってくれる調停にはできるだけ速やかに従う方が賢明という教え。

振り上げた拳はなかなか自分で降ろすことはことはできない。
そんなときに第三者が仲裁してくれるということはとてもありがたいことで、それをないがしろにしてはいけない。

喧嘩や諍いを収めるのはタイミングがとても大切。そしてそのタイミングは非常に難しい。

そんなときに現れてくれる仲裁人という存在は本当にありがたいだろう。

時としてそんな仲裁人の呼びかけを感情的に否定してしまいそうになるが、それは賢くない人がやること。

賢い人はどこでどのように和解をすれば落としどころというか着地できるかを冷静に考えるものだ。

それを考えることができるか、できないか。またはそんな仲裁人が現れてくれるか、くれないか。

それは非常に大きな分かれ道になるだろう。

「挨拶は時の氏神」をよく覚えておこう。

今日の四字熟語「愛別離苦」

「愛別離苦」

仏教用語で四苦八苦の「八苦」の一つで、親子や夫婦など親しい者と別れる悲しみや苦しみを意味する。

四苦八苦の「四苦」とは、生・老・病・死の四つの苦しみ。

四苦八苦とは、四苦の生・老・病・死に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦を合わせて四苦八苦という。

人間の苦しみは仏陀の時期から何も変わらない。生まれることも老いることも病気になることも死ぬこともみんな苦しみだし避けることはできない。

そして、愛する者と別れることも、会いたくない人に会ってしまうことも、欲しいものを得られないことも、体が元気だから逆に苦しみを感じる時期があることも、人間として生まれたからには避けられないし誰もが必ず体験することだ。

だから、親しい者と別れることがあったときも、その時は心の底から哀しいし苦しいけれど、必ずその感情が落ち着いて癒えてくるときがくる。

そんな時期がくるまではそっと愛する者に心を馳せながら時間を費やすことが一番の薬になるだろう。

太古の昔から人間の悲しみや苦しみの種類は変わっていないということが四苦八苦という言葉に凝縮されている。

できるだけその苦しみは体験したくはないけれど、避けて通ることはできないという心構えだけはしておこう。

「愛別離苦」