広島原爆投下から80年の日に学ぶことわざ「昔は今の鏡」

「昔は今の鏡」

昔のことは今のお手本であるという意味。現代を理解するには過去の時代を知ることが大切であるということ。温故知新に近いことわざ。

広島に原爆が投下された日から80年の節目を迎えた。

世界で唯一の戦争被爆国として世の中に原爆がどのようなものかを伝える大切な役目をこの日本という国は負っている。

今の複雑な世の中のありようを知るためには昔のことをしっかりと学ぶ必要がある。ただし、私たちが知っている程度の情報を学んだからといって、日本に原爆が投下されたのかという本当の本当の政治的な判断は知る由もない。

それでも、広島と長崎という私たちの国に原子力爆弾が投下されたという事実があることには変わりがない。

世界は今も昔も非常に複雑で難しい関係性にある。政治、経済、軍事、資源、産業、加工、流通、貿易、地政学などなど、私たちが知ることができたり見ることができる世界は非常に表面的ではある。

だから、少々本を読んだからといって、それで世の中を解った気になってもいけない。自分が年齢を重ねると同時に広く深く世の中を学び続ける姿勢が大切だ。

「昔は今の鏡」この昔という言葉も、今の時代からみた戦争時代や昭和初期のことを指すだけではない。日本であれば、江戸時代から戦国時代、安土桃山時代からそれ以前の昔もあるように、それぞれの国にも国の成り立ちや現代までに至る過程というものがある。

それが今の時代から昔を見れば鏡のように見えることだろう。

そして、昔の時代を学ぶことによって現代のことやこれからのことを学べる面もあるはずだ。まさに温故知新。故きを温ねて新しきを知るということだ。

それは社会のことを学ぶだけにとどまらない。自分のことも、家族のことも、地域のことも昔を学ぶと未来が見えてくる面もある。

ただ、注意しておきたいのは、昔のことはそれぞれがある程度の主観で記録されていたり、ある程度の意図があることもあるから、すべてを鵜呑みにしてはいけない。できることなら、複数の記録や資料を丁寧に見てみることによって、様々な立場の違いや視点の違いも見えてくるかもしれない。

社会のこと、自分のこと、家族のこと、地域のこと、仕事のこと、いろいろと学べることはまだまだたくさんある。

「昔は今の鏡」

横浜みなとみらい花火大会事故に学ぶ四字熟語「殷鑑不遠」

「殷鑑不遠」(いんかんふえん)

このことわざは、過去の失敗を教訓として、将来の戒めとすべきだという教え。

殷の紂王(ちゅうおう)の暴政を例に、過ちを繰り返さないように戒める言葉。「殷」は中国古代王朝の名称。「鑑」は鏡の意味で、戒めとするべき手本という意味を表している。

「殷」が前代の夏王朝が悪政によって滅亡したことを鑑、戒めとしなければならないと言い伝えるための言葉にしていたようだ。

失敗の前例はあれやこれやと探さなくても身近にあるから、それを見て手本にせよといういうこと。

横浜みなとみらい花火大会で、船から打ち上げる予定だった花火が何らかのミスによって引火してしまい、暴発や予定外の爆発を起こしてしまった。

プロ中のプロの花火師たちが扱っているわけだから、ミスを起こす可能性は極めて低いとも思われる。

それでも、ミスは起こるし起こってしまった。

ちょっとしたミスが大事故につながる花火だから、花火師たちだって念には念を入れた準備をしていたはずだ。

それでも、ミスは起こるし起こってしまった。

だから、私たちも毎日同じようなことを行っていたとしても、ミスが起こる可能性はゼロではないと肝に銘じて、念には念を入れて戒める習慣が大切。

事故やミス、トラブルの教訓はいつでも身近になる。「ヒヤリ・ハット」とも言われるが、ヒヤリとしたりハッとすることがあったら、そこでしっかりとその原因などをケーススタディとしておくことで、もっと大きな事故やミス、トラブルを回避できる。

その「ヒヤリ」や「ハッと」する感覚に気付くことができるかどうかが重要だ。

昔の古代王朝のように、滅亡してしまうような悪政というほどスケールが大きな話ではないかもしれないが、私たちの生活に応じた大きさでとらえておこう。

今の自民党や政治にもこの「殷鑑不遠」という四字熟語を学んでもらいたいものだ。

大相撲万博場所に学ぶ四字熟語「唯一無二」

「唯一無二」

大相撲名古屋場所が終わってからわずか一週間後ではあるが、現在開催中の大阪・関西万博で夏巡業としての大相撲万博場所が行われたらしい。

万博というイベントだから海外からの旅行者も多い中で、見学に行けた人たちには非常にラッキーな機会だっただろう。

そして、「唯一無二」といえば横綱大の里が横綱昇進の伝達式の際に口上で述べた挨拶に使われた四字熟語だ。

「唯一無二」には、この世でただ一つのもの、ただ一つ絶対で他に同じものはないという意味がある。「唯一」と「無二」はどちらもにただ一つしかない、ほかには二つとないという意味があって、その同義語を重ねて意味を強調する四字熟語の構成になっている。

名古屋場所では残念ながら優勝争いには加われなかったものの、大の里は横綱として圧倒的な存在感を放っていた。途中から豊昇龍も休場してしまったので、一人横綱としての重圧も大きかっただろう。

そして、大の里が口にすると説得力があるが、私たちだって一人一人は「唯一無二」の存在だ。

仕事や何か組織的には代わりはいくらでもいるかもしれないけれど、家族や友人という枠組みで考えれば、誰だって一人一人「唯一無二」だ。

だから自分自身に誇りをもって、自分という存在を世の中の役に立つように、それによって自分自身もより成長できるような循環にしていきたい。

一人一人は本当に小さな小さな存在だ。だけど、自分という存在は他に二人はいない。だから、知名度があろうとなかろうとそんなこと関係ない。

みんな「唯一無二」であるからこそ、お互いに敬意を持つことも忘れたくない。やっている仕事の違いはあっても、そこに軽重や貴賤はないはずだ。

世の中みんな「唯一無二」という意識で過ごし、だからといって自分も人を虐げず妬まず嫉まず、自分を世の中の役に立てて、それによって生活が成り立っていくように努めたい。

まだ今のところ大阪関西万博には行ってないし行く予定もないけれど、大相撲万博場所が開催されたというニュースを聞いて、「唯一無二」という四字熟語を考察してみた。

「唯一無二」

七月に大災害が起きなかったことに学ぶことわざ「一匹の馬が狂えば千匹の馬も狂う」

「一匹の馬が狂えば千匹の馬も狂う」

群衆は暗示にかかりやすくて、一人が異常な行動をとると他の人もそれにつられて大きな混乱が生じやすいという例え。

八月に入ったことで「七月に大災害が起きる」という予言とも流説ともとれるような話は単なる噂だと証明された。

個人的に、そんな話が広まっていると聞いたのが七月に入ってからだったので、気に留めることもなかったが、一部の人は心のどこかで警戒していたかもしれない。

事実、香港からだか台湾からだかの観光客は、日本では七月に災害が起きるかもしれないという噂を聞いて旅行を控えたため、今年七月の日本への来日観光客は一時的に減少したそうだ。

「一匹の馬が狂えば千匹の馬も狂う」ように、一人の人が七月は日本への旅行は差し控えようと言い出すと他の人にも波及することがあるという、このことわざの通りの現象だった。

人間の心はどこかでいつも不安とか恐怖とか危険回避、安全優先という意思が働いている。だから、一人の人の行いが時と場合によっては他の人にも伝染して混乱が広がってしまう場合がある。

今のSNS時代は真偽不明の情報も多数発信されて、本当に何を信じたら良いのか判り難い。自分の判断が正しいのか安全なのか確証がないため、他の人の行動を判断基準にしてしまうこともある。

だから、まずは人間の心理はそのように頼りないものだと理解して、昔から「一匹の馬が狂えば千匹の馬も狂う」ということわざがあるように、群集心理にできるだけ左右されないような心構えを持っておこう。

最終的には自分の安全は自分で確保するしかない。また、自分の安全を確保するという自助を優先しつつ、共助や公助という次のステップなども意識すると良いだろう。

「一匹の馬が狂えば千匹の馬も狂う」

女性トイレ不足問題に学ぶ四字熟語「着眼大局」

「着眼大局」(ちゃくがんたいきょく)

この四字熟語は、物事を広大な視野で全体的にとらて、その本質や要点を誤らないように見抜くことという意味がある。

「着眼」は、目のつけどころや着目点。「大局」は、物事の全体としての動きやなりゆきという意味の熟語で、それらを組み合わせた建付けの四字熟語になっている。

最近、男性トイレに比べて女性トイレが少ないという議論を聞くことがある。この問題は最近起こってきた話ではなく、私などが子供のころから頻繁に目にする現象だと思う。

昔は特に印象的に覚えている光景としては、高速道路のサービスエリアのトイレや映画館のトイレなどに女性がトイレの行列待ちをしていたところ。

今はその頃に比べればかなり緩和されたとは思うが、それでもやはり女性トイレは行列ができる傾向は変わらないと思う。

だからといって、男性側が恵まれているかと言えば、個室トイレ待ちする男性はとても切実だと思う。

自然の摂理を極限まで我慢しつつ、辛抱強く個室トイレが空くのを待つ心境は女性には逆になかなか伝わらないかもしれない。

だから、そもそもトイレスペース問題は男性と女性を比べるということが大局的ではない。男性にも女性にもそれぞれ別の問題があるからだ。

男性スペースを狭くして女性スペースを広げれば解決するわけでもない。そもそも、トイレは生産的なスペースではないから施設側からすれば少しでも狭く済ませたいのも実情だろう。

個人的には、スペースを広げるという議論ではなく、「行列待ちができそうなときには少しでもお互いに配慮して回転を良くしましょう」という呼びかけが効果的だと思う。

以前から公共トイレを綺麗に使えない人は好きではない。自分の家のトイレならともかく、公共のトイレは誰かが掃除してくれているのだ。

その事実に感謝してまずは綺麗に使う。そして、次の人のため無理なく可能な限り時間を短縮する。そんな気遣いがトイレ問題を緩和させてくれるマナーということだ。

そこには触れず、単にトイレ数やスペースが足りないという議論は「着眼大局」ではない。

本当に大切なことや現状を少しでもより良くするには何が必要かを考えつつ、施設において許せる範囲でトイレや休憩スペースを拡充することが優先的な順位付けなのではないだろうか。

このような事例はトイレ問題に限らず、物事を「着眼大局」に考える大切な習慣にできるだろう。

「着眼大局」

七月最終日に学ぶことわざ「月日に関守なし」

「月日に関守なし」(つきひにせきもりなし)

このことわざは、月日が経つのは非常に早いことの例え。「光陰矢の如し」とか「歳月人を待たず」と同じ類のことわざ。

月日という動きを取り締まれる者はいないということだろう。

今日で2025年の7月も最終日。明日からは8月で子供たちの夏休みも本格的になる一方、暑さもピークの時期だしこの週末は台風も関東に近づく恐れがある。

昨日のカムチャッカ半島近くの大地震といい週末の台風といい、昨日は兵庫県の丹後で観測史上で最も暑い42.1度が記録されるとか、もう自然の摂理には人間は太刀打ちできない。

この暑さも台風もその時期が去ってくれるのを静かに待つしかない。

とはいえ、暑さも台風も事前に準備できることはあるし、地震は備えられなくても災害への対策を行うことはできる。

ただ座して待つのではなく、自分にできる準備を行っておくことが大切。その対策や準備を上回るような想定外のことが起きてしまった場合は仕方ない。

月日が経つのは誰にも止められない。だけど、その日その日をできる限り充実させて過ごすように心がけることはできる。

いたずらに時間を過ごしてしまうのではなく、何歳になっても自分にできることで無理なく何かに挑戦したり活動したりすることはできるはず。

自分自身も「尊敬・感謝・必死」を大切に、周囲の人を尊敬して、社会に感謝して、自分は必死に生きる。

「月日に関守なし」をネガティブな感覚の言葉としてとらえずに、月日が経つのは早いから日々を「尊敬・感謝・必死」に生きることが大切というポジティブな感覚でとらえたい。

「月日に関守なし」