すぐに成果を出したいと焦る人に贈ることわざ「商い三年」

「商い三年」(あきないさんねん)

商売は始めてから三年くらい経たなければ利益を上げるには至らないから、どんな商売でも最初の三年は辛抱強く頑張れという意味のことわざ。

このようなことわざができた時代と今の時代は違うという人もいるかもしれない。

現代は変化が速く、どんな情報でも昔に比べれば簡単に入手できる時代だから三年も辛抱するのは難しいかもしれない。

それでも、通底しているのは三年くらいは経たないと自然に体が動くようにはならないし、業界や周辺の知識も見えてくるようにはならない。

昭和の時代には丁稚(でっち)にも似た徒弟制度や師弟関係、主従関係が残っていたので我慢や辛抱が分かりやすく伝わったけど、今の時代は師匠や先輩が避けられる傾向にあるから逆に職人技を身に付けるのが難しい。

ただし転職だって、よほど自分で身に付けた手に職を生かした転職でなければ、新しい職場に慣れるのにも最初の三日、一週間、一か月、三か月、半年、一年、三年と少しずつ少しずつ慣れていき新しい仕事も覚えていくもの。

ことわざが古いと侮ることなかれ。すべての故事・ことわざ・四字熟語には、古代から変わらない人間本来のありようについて知恵を教えてくれている。

何事もまずは三年頑張ろう。「商い三年」(あきないさんねん)

やたらと口数が大人に贈る四字熟語「蛙鳴蝉噪」

「蛙鳴蝉噪」(あめいせんそう)

やかましいばかりで実りのない議論や、内容が乏しい下手な文章のことや無駄が多くて中身が伴わないことを意味する四字熟語。

蛙や蝉がやかましく鳴くことから、うるさいばかりで何の役にも立たないことが漢字の由来。

先日は口数が多い人に贈る「空き樽は音が高い」ということわざを学んだ。ほとんどそのことわざと意味が同じ。

どちらも中身がないことをやかましく議論したり、声が大きい割には中身が重要ではないことを意味する。

ついつい声が大きい人の言うことは説得力が出てしまうこともあるが、冷静に聞いてみると中身の重要性を感じられなかったりすることもある。

ただ、逆説的に言うと、どんなに重要なことや大切なことも声が小さいと説得力が乏しくなってしまうことがあるから、できるだけ大きな声やアクションで伝える努力は必要なのかもしれない。

個人的には「蛙鳴蝉噪」な人や「空き樽は音が高い」的な人とは関わりになりたくないし、自分はそんな存在にはなりたくない。

うるさいばかりで役に立たなかったり、中身のないことを声高に伝えることを美学とする人たちもいるから世の中は不思議なものだ。

「蛙鳴蝉噪」

やたらと口数が多い人に贈ることわざ「空き樽は音が高い」

「空き樽は音が高い」

樽をたたくと中身が詰まっていれば重い音が響くけど、中身が空に近いほど高い音がする。

このことから中身のない空疎な人ほどよくしゃべって周囲をうるさがらせるという意味のことわざ。

自分自身にも思い当たる節がある。

自分の考えに自信がなかったり、人からの受け売りを自分のこととして伝えようとしたりするから、どんどん言葉に言葉を重ねてしまうことになる。

気が付けば、相手はほとんどしゃべることがなく話しているのは自分ばかり。

営業やセールスを始めたころに新人がまさにそんな感じだろう。

でも、それに気付いて自分の浅い考えを深めようとしたり、知識の幅を深めたり、周辺知識を身に付けたりすることで少しずつ補っていくことができる。

さらに、話している相手の立場にたって、もしも自分が相手となって自分の話を聞いたらどんな感覚になるのかを考えることによってもまた変化が起きる。

それを重ねていくと、相手の話を引き出して聞けるようになり、自分がしゃべるのは必要最低限に抑えることができるようになる。

自分という樽から出ている音は軽いなと気付くことが大切。誰だって若いときは音が軽いのは同じこと。

それ気付ける人と気付けない人の差が大きい。

「空き樽は音が高い」

悪事に手を染めそうになったときに思い出すことわざ「悪木盗泉」

「悪木盗泉」(あくぼくとうせん)

どれほど困窮しても、決して悪事を働いてはいけないという戒めのことわざ。

そして、悪事に近づいて人から疑われるようなことは避けるように促す意味もある。

質の悪い木の陰で体を休めたり、悪泉の水を飲むだけで体が汚れるということからきている言葉らしい。

私たちは生活をしていれば、物事がスムーズに進むことよりも上手く運ばないことの方が多いと感じてしまう。

そんなときに他人がちょっとズルいことをやっていたりすることを見かけるとついつい自分も真似しようかなと魔が差す気持ちも湧いてくる。

しかし、一時的にズルをして何か上手くいったとしてもそれを継続できたりするとは限らない。

そして、一度ズルをしてしまうとそれが習慣になり、ズルいことをする自分の気持ちも麻痺してくるようになる。

そうなると今度はもっともっと大胆になってしまったり、悪事の規模が大きくなってしまうかもしれない。

あとは、そんな人が近くにいたら自分も疑われかねないから決して近づかずに人間関係に適切な距離を置くことが大切だろう。

人間の心というものはとても弱いものだから。

「悪木盗泉」(あくぼくとうせん)

社会の変化に対応できない人に贈ることわざ「明るけりゃ月夜だと思う」

「明るけりゃ月夜だと思う」

夜に外が明るければすべて月夜だと思い込んでしまうことから、考えが単純で物事を知らないことを意味することわざ。

そんなのんきな人を嘲笑する意味もある。

世の中は、今日何事もなくても明日は何か大きなことが起きるかもしれない。

今日は売り上げがあがっても明日にはその売り上げがなくなるかもしれない。もちろん、もっと売り上げが上がるかもしれない。

どんなことがあっても変化に対応できるように、常に視野を広げて謙虚に学ぶ姿勢が大切。

外が明るいから月夜だと思っていると突然真っ暗闇になるかもしれないが、その用心や準備、心構えができていれば対応できる。

そして、用心や準備、心構えができている人とできていない人の差は大きい。

それこそ、このことわざが伝えたいことだと思う。

楽しいときには楽しむことも大切だし、しっかりと物事を考える時間や機会も同じように大切。

自分の身に起きることを通して、世の中の変化や移り変わりを知り、これからへ向けた準備や心構えもしっかりと考えよう!

「明るけりゃ月夜だと思う」

良い人材を採用したい人に贈る四字熟語「握髪吐哺」

「握髪吐哺」(あくはつとほ)

優れた人材を求めるのに熱心なことや、才能ある人材を確保しようと熱心になることを意味する。

この四字熟語の語源は中国の将軍が来客があると入浴中なら洗いかけの髪を握ったまま(握髪)でも対応したり、食事中なら食べ物を吐き出して(吐哺)でもすぐに出迎えたという故事に由来する。

そのくらい来客には熱心に対応したり、自分から熱心さを伝えなけれが良い人材に縁ができないのは古代中国の時代から変わらない。

良い人材を採用したいのなら、握髪吐哺の気持ちで丁寧に人との縁を大切にして、腰を低く人に接する必要がある。

そのくらいできない人が腕組みをして待っていても人材は向こうからやってこない。

その昔、三国志の時代に蜀の劉備玄徳は諸葛孔明に何度も断られながらも採用したいと訪ね続けた結果、諸葛孔明が「三顧の礼」という気持ちで折れたという史事もある。

良い人材を採用できるかできないかは探す方の人徳と努力によるところが大きい。

「良い人材がいない」とボヤく暇があったら自分から人に会いに行こう!

「握髪吐哺」