安倍元首相銃撃から三年に学ぶことわざ「大義親を滅す」

「大義親を滅す」(たいぎしんをめっす)

安倍元首相が銃撃に倒れてから今日で三年ということらしい。
あっという間というか、ついこの間の事件だったような気もする。

「大義親を滅す」ということわざの意味は、国家の大事のためには肉親の情をも顧みないという意味。昭恵夫人にとっては非常に酷な言葉でもあり、国家を率いる首相を務めるということは本当に命がけという事実でもある。

単に気の毒というレベルの話ではなく、政治とは利害の調整であり早い話が税金の分配ということだから、それぞれの当事者にとっては死活問題であって、それを差配するトップとしての首相はまさに命がけの仕事になる。

首相になる人も様々だが、それぞれが持つ国家感を少しでも現実にしてみたいというのも為政者の感情だろうし、実際にそんな経験ができる人はほんのわずかな人たちに限られる。

そういう意味では、特に現在の首相などからは本気の命がけという信念が感じられない。

我々国民もバカではないから、その人の立ち振る舞いや発言などの何かからその人の人となりを感じるものである。

だから選挙には風も吹くし投票率も上下する。

投票日を三連休の中日に設定するなどという姑息な手段すら使う現政権与党もそれなりに必死なのかもしれないが、それは国民のためにという風には受け止められない。

現政権やこれから首相を目指す人たちには安倍元首相の生き様とこのことわざをよく噛みしめて欲しい。

「大義親を滅す」

フジテレビ検証番組に学ぶ四字熟語「旧套墨守」

「旧套墨守」(きゅうとうぼくしゅ)

「旧套」は、古い体質や習慣、前例などを指す言葉。

「墨守」は、中国の思想家である墨子が、楚の攻撃から宋の城を何度も守り抜いた故事に由来する言葉。墨子は、自分の主義主張や戦略を固く守り、決して変えなかったことから、「墨守」とは、自分の考えややり方を頑なに守り通すことを意味するような意味の言葉になった。

要するに強烈な成功体験を得て、何も考えずにそのやり方さえ守っていれば上手くいく時期が長く続いた時代や考え方に注意を促す言葉でもある。

フジテレビも日枝体制の基、「フジテレビでなければテレビにあらず」という強烈な成功があったが故にその時代の手法や慣習が長く続き、そしてそれを改めることができないまま現代に至ってしまった。

これは非常に難しい問題でもあると思う。

誰しも強烈な成功を求めるものだし、成功を収めると注意する者も現れなくなり、有頂天となり天上天下唯我独尊になってしまう人も少なくない。

そこで失敗をしたり痛い目にあったり、火傷をしたり、辛酸を舐める経験をすることもあるが、そこから立ち直り這い上がる者が本当の「強さ」を身に付ける。

ここで言う「強さ」とは、単に成功を収めればいいとか影響力や知名度を上げればいいという単純なことではなく、人生には良いときや悪いときがあるということを知り、そんなときに周囲の人がどう自分に接してくれるのかということを体験して、そして自分が本当に大切にすることは何なのかに気付くことだと思う。

そして、それを実践していくことで本当に信頼ができる仲間や家族に恵まれていく過程が本当の「強さ」ではないだろうか。

その強さを身に付けるには「旧套墨守」にならないように常に自分の考え方や行動を客観的に見ていく必要があるだろう。

「旧套墨守」

悪石島から避難に学ぶことわざ「降らぬ先から傘」

「降らぬ先から傘」

このことわざは読んだ通りに、雨が降る前から傘を準備しておく方が良いということ。

何かことが起きてから備えてもそれは後の祭りで、備えがあれば憂いは少なくなる。

最大震度6弱などの地震が頻発する鹿児島県十島村の悪石島から住民の島外避難が始まった。

地震が頻発する恐怖は体験した者でなければ解らないだろう。小さな地震でも揺れが始まると「このまま大地震になるのではないか?」という恐怖が頭をかすめる。

それが頻繁に起きるわけだから、現在の悪石島周辺の方々は本当に夜も眠れないだろう。しっかりと非難して体を休めて欲しい。

我々も遠く離れた地域の話とたかをくくらずに備えたい。

雨が降る前から傘をさす必要はないが、折りたたみ傘を持って出れば万一の降雨 もずぶ濡れにはならずに済む。

そんな備えを怠る者や面倒臭いと思う人には、こんな言葉も添えたい。
「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者はおそれず」

賢い者は準備を迷わないし、仁に篤い者はたたただ恐怖にフリーズしないし、勇者は冷静に振る舞う。

そんな大人に私もなりたい。

「降らぬ先から傘」

SNSに溢れる情報に感じる四字熟語「一知半解」

「一知半解」(いっちはんかい)

少し知っている程度で、十分に理解して自分のものになっていないこと。
中途半端な知識で、なまかじりや生半可、半可通のこと。

世の中に飛び交うSNSのやり取りや投稿をみていると一知半解をよく感じる。

とりあえず表面上の感覚やどこかの誰かからの受け売りで他の誰かを誹謗中傷したり、否定したりする投稿が目立つ。

どこかの投稿に対して否定ありきで中途半端な反論のためのデータを拾ってきたり、自分少しだけ知っている知識を否定されるとまるで全人格を否定されたと思い込んで感情的に反論するやり取りなど、本当に不毛だし時間の無駄だなと感じる。

だから、自分も一知半解にならないように気を付けたいし、中途半端な知識しか知らないことには口を出したり口を挟まないように心がけている。

他の人が得意げに何か知っているかのような投稿を見ても反射的に感情的な否定はしないし、自分は自分の目の前のことに集中することが一番大切だと理解している。

「生兵法は大怪我の基」ということにも通じるわけで、中途半端で一知半解な知識が自分にとって大変な損害をもたらすことがあることを心得ておこう。

「一知半解」(いっちはんかい)

仕事での成果を焦る人に贈ることわざ「商いは牛の涎(よだれ)」

「商いは牛の涎(よだれ)」

商売や仕事は、牛のよだれが細く長く切れ目なく流れ出るように続けて、こつこつと気長に辛抱して継続しなさい。しっかりと軌道に乗るまでは利益を急がないように、という意味のことわざ。

「商い三年」ということわざと同じく、仕事や商売は長い年月をかけて実績と信用や信頼を積み重ね、それが三年程度経ってくるとようやく利益になり始めることを教えてくれる。

子供のころには習い事をするにも学校などに通いながらということになるから、何年もかけて一つのことを習得していく過程に違和感がないけれど、大人になってから新しい仕事や習い事などを始めると早く成果を出したくなる気持ちも解る。

その気持ちとは裏腹に、他の人は自然にやっているように見えて自分だけができていないような気になったりもする。

でも自然にできているように見える人も実は何年もかけて少しずつ習得してきているはず。

自分のペースで「焦らず弛まず怠らず」に、牛のよだれのように継続していくことを心がけよう!

「商いは牛の涎(よだれ)」

日々が辛いなと感じる人に贈る四字熟語「一陽来復」

「一陽来復」(いちようらいふく)

来復の「復」は、陰暦の11月または冬至を指す。来復で陰暦の11月とか冬至の頃が来たという意味。

「一陽」は初春の気配を表す熟語で、春がやってくるという意味。

これをつなぎ合わせて、厳しい冬が終わって暖かい春が巡ってくることを表し、辛いことや嫌なことが続いた後には必ず良いことにつながるという意味の四字熟語となっている。

人は生活していると、当然ながら今まさに目の前の現実が全てで、辛い日々を送っているとそれがいつまで続くのかと不安を感じてしまう。

それが高じると、先にはもっと悪いことになるのではないかとネガティブ思考がより強くなってしまうこともあるし、いずれは辛い現状が変わる日が来るとはなかなか考えられない。

けれども、悪いことだけがひたすら続くということもないし、必ず辛い日々が良いことにつながる日が来ると考えを切り替えることが、逆に良いことを引き寄せる力につながる場合もある。

だからこそ、昔からの四字熟語に「一陽来復」というような言葉もあるわけだ。

最近YouTubeで特によく見るのが二子山部屋を始めとする相撲部屋関係動画の中で日々稽古に励む力士たちにも「一陽来復」という言葉を贈りたい。

稽古は裏切らない。そして、今はなかなか番付昇格が難しくても必ず成果につながるときがくる。

それを信じて、今日も目の前の稽古や仕事に励もう!

「一陽来復」